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どうしてもわからなかった。なんの力もないくせに、こいつにはどこか他人を惹きつける魅力がある。それこそ高校生の頃なんて、いつも下を向いてばかりの地味で根暗な少年だったはずなのに、ひとたびこいつと目が合うと、引力さながらその透明な瞳に呑みこまれそうな、そんな錯覚に陥るのだ。
「……遥佳の言うとおり、あのときよりは多少、大人っぽくはなってるか」
クラスメイトは家柄を盾にとったくだらない子供ばかりで、表面上ではこいつを馬鹿にしていたけれど、本心では月城馨を怖がっていた。いつだったか、男子トイレに閉じこめられ水攻めにされたときも、教室に戻ってきたこいつは凜然としていて、ほんの少しも惨めには見えなかった。それどころか、全身を濡らしたその姿は美しく、幻想的に映って見えた。
まるで人間の心を惑わせ、その海に引きずりこむ、妖艶な人魚のように……。
「そういや、こいつと目が合うと精液吸われるって噂あったっけ。高校生ってアホだな」
ようするに、それほど異質な存在だった、ということだろう。
それでも俺は、こいつのことを特別に意識したことはなかった。ほかの奴らみたいにくだらない遊びに参加するほどの興味もなく、無表情な人形としか思ってはいなかった。どんなことをされても決して泣かない、血の通った動く人形。綺麗だけど感情のない、空気みたいなつまらない存在。
そう、あのときまでは――。
特になんの意味もなかった。挨拶代わりにほんの少しからかっただけなのに、あれほどまでに激昂したこいつを見たのは初めてで、俺は殴られたことなんかより、むしろそっちのほうに驚いたくらいだった。あんなに傷ついた顔をされるとは思ってもみなかったし、自分で言うのもなんだけれど、あのときは珍しく良心が痛んだものだ。
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