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―いち―
都内にあるフランス料理店。華麗で優雅なオーケストラのワルツが、その空間を満たしている。計算し尽くされた音量は耳に心地好く、食事や会話を楽しむ雰囲気を上手く引きたたせていた。店内の装飾は華美ではない。どちらかというと親しみやすさを感じさせるくらい……なのかも、しれない。
そうだとして、それでも上流に部類する人間が通うランクの店であることは確かである。それくらいは僕にもわかる。わかっている。
この店で自分がういていることくらい、僕にだってわかっている。
床に落としたスプーンを慌てて拾おうとした僕を、向かいに座った桜子さんが静かに、やんわりと制した。桜子さんの言うとおり、僕の粗相は給仕によって素早く、まるでなにごともなかったかのように処理される。ぎくしゃくとしていた緊張感がみるみる羞恥へと変わり、耳の端までじんわりと熱くなった。
「あ……あの、すみませ、ん……」
居心地悪く詫びた僕に、ウエイターが柔らかく微笑んでくれた。見下すような冷たい視線を浴びる覚悟をしていたけれど、質の良い店には相応の人材がいるものらしい。彼は桜子さんが、ありがとう、と告げると、綺麗な角度で一礼してその場を離れた。
気をつけていたはずなのにまたドジを踏んでしまった。僕のせいで桜子さんが恥をかいてはいないかと、ひやひやする。こういう店で何度か食事をしているが、慣れない作法にいまだ手つきが覚束ない。
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