さくらくも

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立ち上がって辺りを見回すと僕は一人だった。もう日は暮れ始めている。何か、長い夢から醒めたような気分だった。幼馴染はどこに消えたのか、手がかりをあたるべく昼間の蕎麦屋を訪ねた。しかし蕎麦屋の爺さんは首を傾げて、女の子はて君は一人で来ていたのじゃなかったかいのと訝しがっただけであった。途方に暮れつつ家路についた。帰りの、人が僅かしか乗っていない電車に座ると眠気が襲ってきた。車内の光と外の闇によって車窓は鏡となって僕の姿を映した。その鏡に座る僕の隣に、確かに幼馴染がいることを僕は感じた。しかしてその虚像は一六歳の少女ではなく、幾分か年増の美女の姿を纏っていた。翌日、昼休みに入るとすぐ図書室へと向かった。幼馴染の姿はなかった。古典文学大系の和歌集を開き一頁一頁丁寧に確認したが、どこにも清明院陳子の歌はなかった。司書教諭にはなづくしという本はあるかと訊ねたが、それもなかった。国語の教諭にさくらくもと いう言葉があるかと訊いたら、桜の雲と書いて「おううん」とは読むがさくらくもという読みは聞いたことがないと言われた。僕は自分が長い間、夢を見ていたのだろうと考えた。 放課後、もう一度図書室へ向かった。そして和歌集を取り出し、もう一度一頁一頁確認してみた。やはり清明院陳子などという人物はいなかった。あきらめて夢の中の幼馴染が開けて見せた辺りをぱらぱら捲っていると、差し込む夕日に照らされてある頁の中に文字が透けているのが見えた。インクでくっ付いたその頁を丁寧に剥がすと、元々乱丁だったのか両頁とも活字は印刷されておらず、右頁には流麗な筆字でこうしたためられていた。 風さそう ゆくえは知らで さくらくも 雨はなふりそ 香雲山の空   清明院陳子 僕は昨日既に散り始めていた香雲山の桜を想った。僕が幼馴染だと思っていたあの少女はさくらくもと一緒に、一体どこに消えてしまったのだろう。一頻り孤独の確認を終えた僕は、空いている左頁にこんな風に返歌を記しておいた。  追う雲の 悲しからずや そらに消え われ独りのみ 残さるる世の     
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