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研さんの声が、その日に起きたことを淡々と語る。その日、花穂子さんとあかねちゃんは、いつもと同じように、手をつないで小学校への道を歩いて行った。
──もうすぐ一年生だね。
──入学式、楽しみだね。
──友だち、いっぱいできるといいね──。
歩きながら、そんな会話を交わしたかもしれない。
交差点で信号を待っている時に、それは起きた。歩道に突っ込んできた宅配のトラック。過労による居眠り運転だった。身重の花穂子さんは、あかねちゃんを自分の身体でかばおうと抱きしめるだけで精一杯だった。
研さんが病院に到着した時には、何もかも全部、終わってしまっていた。長谷さんは、つい今しがたまで生きて笑っていたはずの妻と小さな娘のそばに、ただぼんやりと立ち尽くしていた。
研さんの声を遠くに聞きながら、理香の心は、あの夜に見た長谷さんの部屋に戻っていった。
食器棚に並べられた三人分の食器。うさぎの絵がついた、小さな桃色のお茶碗。
たぶん、何年もずっと壁にかけられたままだったのだろうカレンダー。入学式に、誕生日、出産予定日。当たり前に続いていくはずだった毎日──。
一人残されて、長谷さんは、どんな気持ちで眺めていたんだろう。
「わたし──」
さっきまでとは違う涙がこぼれた。その先の言葉が出てこない。
研さんは、黙ってしまった理香を見つめていたかと思うと、視線を空に向けた。白いものが、ゆっくりと落ちてくる。雪だ──。
「ああ」研さんは小さく息をついた。「道理で寒いと思った。もう、三月も終わるっていうのになあ」
研さんはつぶやき、優しい目で理香を見た。
「ごめんな。手、痛くなかったか?」理香がうなずくと、研さんは安心したように続けた。
「本当はオレが言うことじゃないって分かってる。でも、理香ちゃんの気持ちがあいつにあるんなら、どうか、あいつのためにそばに居てやって」
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