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夜の住宅街を無言で歩いた。
ところどころに立っている街灯が、暗い通りに小さな灯りを投げている。
長谷さんは、最初のうち戸惑った様子で一歩後ろを歩いていたけれど、途中から理香の隣に並んだ。いったん触れた手は、歩き出してすぐに離れ、今は互いに距離を保っている。
家の前に着いたところで、初めて向かい合った。
「あの」
言いかけた理香の言葉を遮るように、長谷さんは「ありがとう」と短く言ってほほえんだ。いつの間にか、記憶にあるのと同じ、落ち着いた彼に戻っていた。
「心配してくれたんでしょう? 僕が何度も連絡をしてしまったから」
「いいえ、あの」
否定しようとした理香に向かって、長谷さんはふんわり笑った。
「気を遣わないでください。いろいろと本当にすみませんでした。ごめんね、今日だって、こんな風にわざわざ来てくれて」
気を遣ってくれているのは、長谷さんの方だ。この人は、いつも優しい。だから、こんな時にもほほえんでくれる。
「タクシーを呼びますね」
長谷さんは言い、コートのポケットからスマホを取り出した。画面を立ち上げて、指をすべらせる。
ここまで無理やりに引っ張ってきたようなものだし、もしかしたら、早く帰ってほしいと思っているのかもしれない。
「だめ──」
思わず口から出た弱々しい声に、長谷さんが手を止めた。
いつかの夜、同じこの場所で、同じような会話を交わしたことを思い出した。
あの時に戻れるなら戻りたい。そしてやり直したい。でも、どんなに後悔していても、時間は戻らない。
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