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あの夜と同じように、家の中は静まり帰っていた。「どうぞ」と促されて靴を脱ぎ、しんと冷たい廊下を歩いて、その先のリビングに足を踏み入れた。
人の温もりが感じられない部屋。どう見ても、この家に家族の匂いはない。
ちゃんとこの人とこの家を見ていれば、分かったはずだ。あの夜、ぎりぎりのところで生きてきたこの人にどうして気づけなかったんだろう。
さっきまで降っていた雪はいつの間にかやんで、薄い影が室内を満たしていた。大きく取られた窓の向こうに、あの夜と同じ蒼い月が出ていた。
長谷さんが壁のスイッチに手を伸ばした。理香は、あわてて長谷さんの袖に触れ、「つけないで」と小声で言った。明るい中で向かい合うのが怖かった。
「理香さん」
すぐそばで長谷さんの声が言う。目の前に、黒いコートのボタンがあった。近づき過ぎたことに気がついて、理香はあわてて一歩後ろにさがった。
自宅に上がり込んで、こんな風になれなれしい態度を取って──。
嫌がられているんじゃないかと心配で、表情をうかがうと目が合った。長谷さんは、すっと目を逸らした。
「やっぱり、帰った方がいい。話は、いつか別の場所でしましょう」
長谷さんの言葉を、ゆっくりと頭が理解する。
拒絶されるかもしれないことは分かっていたつもりだったのに、実際のショックは大きかった。理香は内心の動揺を隠して、懸命にほほえんだ。
「わたし、図々しかったですね。すみませんでした」
「そうじゃない」
理香は、自分の方を見ようとしない長谷さんを見つめた。
もうだめだということは分かった。でも “別の場所”で会う機会なんて、きっともうない。今を逃したら、たぶん二度と会えない。
自分の中にある勇気を全部かき集めて、理香はどうにか口にした。
「長い話じゃありません。時間は取らせませんから──」
「帰ってください」
明確な拒絶に心がすくんだ。初めて聞いた強い口調に、涙がこぼれそうになる。長谷さんは息を吐き、「ごめん」と謝った。
「僕は、割と、もう、限界で──」
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