2978人が本棚に入れています
本棚に追加
──ごめん、今日、行けない。
電話を耳に当てた途端に、研さんの苦しげな声が飛び込んできた。いきなりの言葉にとまどい、理香は「どうしたんですか」と聞き返した。
──たぶん、モウチョウ。
「え?」予期しない単語に、思わず大きな声が出た。「モウチョウ、ですか?」
うまく漢字に変換できずに戸惑っていると、電話の向こうでサイレンが鳴り出した。
どきっとするほど音が近い。ピーポーピーポーという耳慣れた音をバックに、録音された声が繰り返す。直進します、進路を開けてください、直進します。
「あの、研さん? 大丈夫ですか?」
──今、救急車の中で──。
研さんは言いかけ、直後に野太いおたけびを上げた。のた打ち回るアフロヘアの大男の姿が浮かんだ。
──ぎゃー、そこ、そこ、痛いっす。あだだだだだ。
──血圧を測ります。動かないでください。
研さんの声にかぶせるようにして、男性の冷静な声が告げる。続いて、うめき声が聞こえた。
どうやら、電話の向こうでは大変な事態が進行しているらしい。
「モウチョウって、もしかして、盲腸ですか?」
研さんは「うん、うん」と何度も言った。よほど痛いのだろう、涙声になっている。
──そっちに向かってたんだけど、ダメになった。今日、無理──っていうか、ごめん、当分無理かも──。
「そんなのいいです」理香は大急ぎで口にした。「心配しないでください。大丈夫です、こっちはどうにでもなりますから」
理香の言葉を聞いているのかいないのか、研さんは「本当にごめん」と繰り返した。
──代理を頼んだから。『急いで行け』って言ったから、すぐ着くはず──。
「代理?」と反射的に聞き返そうとして、とどまった。悠長に話している場合じゃない。「いいですから、こっちは大丈夫ですから、心配しないで」
研さんは「ごめん」と「ありがとう」を交互に繰り返した。そして最後に「うおぉ、いだだだ」という声を残して、電話が切れた。
最初のコメントを投稿しよう!