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視界が揺れる。唇を尖らせながら《司書》は首を抱き寄せる。デキの悪いマネキンみたいに、首はすっぽりと彼女の膝の上へ。後頭部になんか柔らかいのを押し付けてくるのはイヤミかこいつ。殴りたいところだが腕もないので我慢だ、我慢。
《司書》が再び歌い出す。干からびることもできないプラスチックとゴムの唇が震えて、熱砂を巻き上げる乾いた風と混じり合う。
“それは美しき嘘……それは完全なる否認……信じるに足る美しき偽り……”
「……聴くに耐えない」
「せめて、もう少しアドバイスをちょうだい」
実際、こいつの歌唱力ときたらひどいもので、首に脚が残っていればそそくさと逃げていたに違いない。それも叶わないというのであれば、このリサイタルを隔絶させる。手も足も文字通り出ないのだから、せめて鼓膜くらいは大事にさせてほしい。
“なんて美しい、その美しさこそがわたしを……"
《司書》に目配せして、独唱会は一旦中断。両手で首を掲げた彼女と無理やり目を合わせられながら、丁重に懇願する。
「イヤホン、付けてくれない……」
――――――
――現人類最後の日。それは案の定あっさりと訪れた、らしい。
らしい、というのはつまり、首にはその日の記憶がない。というかおそらく、『その日を憶えているホモ・サピエンスは存在しない』。
七十億のニンゲンが喪われた日。それはきっと、人間という生物の輪郭だけを的確に憎悪した犯罪、与太話のような規模の殺人事件。首だけになった首は、そんな感想を抱いている。身体をまだ持っていたころの「わたし」がどんな気持ちでその日その時を迎えたのか。恐怖はあったのか、反抗的だったのか。朝食には何を食べ、誰に会いに行こうとしたのか。あるいは誰とも会おうとせず閉じ籠ったのか。いまわの際に、なにを知覚したのか。それらを知るすべは、永遠に失われたままだ。
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