#1 バッドランド

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視界が揺れる。唇を尖らせながら《司書》は(わたし)を抱き寄せる。デキの悪いマネキンみたいに、(わたし)はすっぽりと彼女の膝の上へ。後頭部になんか柔らかいのを押し付けてくるのはイヤミかこいつ。殴りたいところだが腕もないので我慢だ、我慢。 《司書》が再び歌い出す。干からびることもできないプラスチックとゴムの唇が震えて、熱砂を巻き上げる乾いた風と混じり合う。 “それは美しき嘘(It’s a beautiful lie)……それは完全なる否認(It's the perfect denial)……信じるに足る美しき偽り(Such a beautiful lie to believe in)……” 「……聴くに耐えない」 「せめて、もう少しアドバイスをちょうだい」 実際、こいつの歌唱力ときたらひどいもので、(わたし)に脚が残っていればそそくさと逃げていたに違いない。それも叶わないというのであれば、このリサイタルを隔絶させる。手も足も文字通り出ないのだから、せめて鼓膜くらいは大事にさせてほしい。 “なんて美しい、その美しさこそがわたしを(So beautiful, beautiful it makes me)……" 《司書》に目配せして、独唱会は一旦中断。両手で(わたし)を掲げた彼女と無理やり目を合わせられながら、丁重に懇願する。 「イヤホン、付けてくれない……」 ――――――  ――現人類(ホモ・サピエンス)最後(ぜつめつ)の日。それは案の定あっさりと訪れた、らしい。 らしい、というのはつまり、(わたし)にはその日の記憶がない。というかおそらく、『その日を憶えているホモ・サピエンスは存在しない』。  七十億のニンゲンが喪われた日。それはきっと、人間という生物の輪郭だけを的確に憎悪した犯罪、与太話(トールテイル)のような規模(スケール)の殺人事件。首だけになった(わたし)は、そんな感想を抱いている。身体(ボディ)をまだ持っていたころの「わたし」がどんな気持ちでその日その時を迎えたのか。恐怖はあったのか、反抗的だったのか。朝食には何を食べ、誰に会いに行こうとしたのか。あるいは誰とも会おうとせず閉じ籠ったのか。いまわの際に、なにを知覚したのか。それらを知るすべは、永遠に失われたままだ。
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