【本編】

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さて海に出ましたら、まず仙岩島の方へと舵をとります。仙岩島は黒い岩ばかりの島でありまして、畜生どころか草木さえも生えてはおりませぬ。日が沈めば海と空に紛れまして、消えてしまうのです。ですからこれは昼に行わねばなりません。仙岩島へ向かってゆきますと、途中波の渦が右回りから左回りに変わる所がございます。この場所でなければなりませぬ。絶対にこの一点から離れてしまわぬよう錨を下ろしまして、兆しが現れるのを待ちます。それは長い辛抱でございます。いつ現れるのかはいくら経験を積んだところで皆目検討がつかないのでございます。いつだかは定かではございませぬが、二十五日もの間、海の上で待ったこともあったようです。その時には漁夫のお方に頼み申しまして、船までおむすびとお漬物を運んでいただいたと聞いております。 兆しというのは大変微かなものでございます。ただ一心に海の底を眺めるのです。群青色の海の底を眺めておりますと、やがて血のような泡がほつほつと昇って参ります。これを見逃してはなりませぬ。と、同じ頃合いに、ぺてぺてという赤子が床の間を這うような音がして参ります。これが合図でございます。若い衆はこの音を聴いたとなると、一斉に槍を構えるのです。波間を裂くようにして血のごとき泡を突きますと弾けて方々に散ります。まるで蝌蚪の群れが鴫に驚いて逃げるかのごとく、はたまた朝霧が晴れるかのごとく四散するのであります。それは美しくも心底不気味な光景だそうで、ある丁稚などは今でも夜中に夢に見るそうです。 さて昇りくる血の泡をみな砕き切りますと先程まで鳴り続けておりました音に少しばかりの変化が現れまする。ごうごうと滝に耳を突っ込んだかのような轟音が頭蓋を内から叩くのでございます。これは大層不可思議なことでございますが、船の上に立つ男供には確かに聴こえるのに、側にある別のお船に乗った地元の漁夫には、水を打ったように何も聴こえないのだそうです。どうも槍で泡を突いた者にしか聴こえないのだ、と酒屋のてつやんは申しておりました。
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