私たちの、善良なる執事

9/11
前へ
/11ページ
次へ
 アラビア海は青いというより、黒かった。潮の香りもそれほど強くない。波は穏やかだ。ゆったり浮かぶには安全で、サーフィンには向かないだろう。浜辺の砂はとても細かくて、柔らかな感触がする。ここまでついて来てしまったジャッキーは、早速、砂を蹴散らしながら駆け回っている。 「大丈夫かな、ジャッキー。敷地の外に出ちゃって」 「何言ってんの、ここも敷地内だよ」  あずさが砂浜にあった看板を示す。わたしたちが泊まっている施設の名前と、プライベートビーチという文言が見える。 「これも、敷地」  思わず呟いてしまう。リゾート慣れしていないわたしには途方もないことだった。目の前にある海が、所有されている。そして少しの間だけ、わたしもこの海を手に入れているのだ。あずさはいつの間にか砂の上に寝転がっている。 「あー、ぼうっとするの久しぶりだー」  間延びした声であずさが言った。わたしもその隣に寝転がる。すると、駆け回っていたジャッキーがわたしとあずさの間に身を横たえた。 「随分と気に入られたねえ、那実」 「何でだろうね」  わたしは腕を伸ばしてジャッキーの頭を撫でる。 「犬が好きだって、わかるんだよ」 「……うん」 「本当はさ、あらかじめ知ってたんだ。犬が沢山いる場所だって」  あずさは珍しく自信がなさそうに言った。 「もし、那実が余計に哀しい気持ちになってるなら、ごめん」 「大丈夫、だよ」  思ったより大丈夫。そう思っていた。ジャッキーがごろんとお腹を見せる。 「この子、コロと一緒なんだよ。すぐにお腹見せちゃって……」  後の言葉がどうしても続かなかった。ジャッキーが不思議そうにわたしの顔を見ている。コロとジャッキーは見た目が全然似ていない。でも、ジャッキーの仕草に、コロの面影が勝手に見えてしまうのだ。 「泣いて、あげられなかった」  わたしは、しゃっくりを上げながら話す。 「あんまりにも哀しくて、コロの前で、泣けなかった」  母も、テレビ電話の向こうの父も泣いていたのに、わたし一人だけが涙を流せなかった。それがひどく薄情な気がして、ずっとわたしを苦しめていた。 「ごめんね、コロ、ごめん」  途切れ途切れの言葉を、あずさも、ジャッキーも黙って聞いてくれた。
/11ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加