一、幻影

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「元気な男の子だよ」 たった一行のメールを見ただけで涙が出た。悲しくもないのに涙が出るなんて初めてだった。突然涙が出たことよりも予定日から二週間も早く産まれたことに驚き、僕はそわそわとして、いてもたってもいられなくなった。気持ちを落ち着かせようともう一度、今度はゆっくりとメールを読むと、短いメールに写真が添付されていることに気付いた。  誇らしげにピースサインを送るカメラ目線の葵と、その傍らで頼りない泣き顔をした小さな、とても小さな赤ん坊。  携帯電話の液晶画面に映る一枚の写真は、いつの間にか僕の顔を綻ばせ、不思議と穏やかな気持ちにさせた。葵から送られた写真をじっと見つめ続けていると、胸のあたりがじんわりと熱くなり、その熱がすぐに僕の全身をかけ巡って、一刻も早く葵と小さな赤ん坊に触れたい衝動に駆らせる。僕は仕事が全く手につかなくなった。利用客の要望が書かれたカードにいくら目を通しても頭には何も入らず、普段なら僕の耳に確かに届き、僕を悩ませる音もまるで気にならない。閑静な図書館の中に埋もれている利用客の無意識の声や、職員の溜息ですら。僕の気持ちは写真の中の病室に真っ直ぐに向かっていく。胸の高鳴りを抑えきれなくなった僕は誰に断わることもなく、図書館を飛び出した。  空調の効いた館内から一歩外に出ると夏が祝福していた。  容赦なく降り注ぐ灼熱の日射しも、汗をかきながら走り回る子供たちも、木陰の中でひっそりと佇む草花も。世界中が歓喜の声を上げて僕に力を与える。その声が追い風となって僕の足は夏の風を切り裂いて駆け始める。ありふれている筈の日常が新鮮に瑞々しく感じられ、気が触れたような蝉の鳴き声ですら僕の耳には心地良く響いた。写真を見た途端に宿り始めた熱いものが胸の中で躍り、涙や汗となって体内から噴き出していく。どこまでも高く昇る太陽の下を、僕はゲリラ豪雨のような幾千、幾億の歓喜の声を全身に浴びて、ただただ必死に病院に向かって走り続けた。 葵を抱きしめたくて、小さな赤ん坊に触れたくて。  「世の中なんてクソ喰らえ」だって言ってやるつもりだった。   他人に同調する必要なんてないし、誰かに期待することや周囲の評価も、ましてや世論や流行も何一つ気にする事なんてない。 だって世の中なんてクソ喰らえだから。
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