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ようやく目的地に辿りつき、ふらつきながら自転車をおりる。
そびえたつ青い洋館を前にして、まず目に入ったのは、二階の窓からこちらを見下ろす黒いワンピース姿の少女だった。
山崎マヤ、十五歳。彼女は美術館の住み込み従業員で、サクラ・チヨコ美術館の館長、山崎氏の孫娘である。長い黒髪に白雪の肌、そして物憂げなエメラルドグリーンの瞳をもつ彼女は、生身の人間というよりは圧倒的に美術品に近い存在だ。館内にただ佇むだけで展示品と間違われ、身動きすれば、うっとりとため息をつかれる。来館者の何人かに一人はマヤの崇拝者で、彼らにはこの娘が、儚い月の王女に見えているらしい。しかし、種を明かせば、彼女はただ無口で愛想が無いだけのひねくれ者だった。学校にも行っていないから、遊び相手のいない退屈を智へのイタズラで紛らす問題児でもある。
ちなみに、今、窓辺に立つマヤが黒いワンピース姿なのは、この八年間、ずっとチヨコの喪に服したままだからだ。彼女もまたチヨコの熱狂的なファンで、智は、喪服でない彼女を見た事がない。
《夏休み中です。そのうちまた開けます》
なにげに不親切な看板のかかった鉄錠門のそばに自転車をロックし、一息ついた。さて、どう叱ってやろうかと思案して顔を上げれば、窓辺からマヤの姿が消え、後には白いカーテンのさざ波が残されている。
狂ったように鳴くセミの声。ちりちりと肌を刺す八月の太陽。手入れの行き届いた庭園を抜けて玄関の前に立ち、少しためらった後にドアを開けた。
白を基調にしたデザインの館内は空調が効いており、かすかにバラの香りがする。入ってすぐ左手の部屋は、館内でも一番広い大食堂。ここが美術館のメイン展示室だ。ところが足を踏み入れてみると、そこにあるはずの作品たちがごっそりと行方をくらましていた。閑散とした室内では、休憩用のソファに腰をかけ、山崎氏がぶあつい洋書をめくっているだけだ。
「こんにちは」
声をかけると、山崎氏が本から顔をあげた。
博学で気品に満ちた英国紳士のような佇まい。山崎氏はかつてチヨコの弁護士兼会計士だった人だが、今は本業を廃し、家族とも別れて美術館の住み込み館長として働いている。彼の生き甲斐はチヨコの遺灰を世界に撒きつづけることで、その活動内容は展示会の企画から関連商品の販売、全集出版や研究書執筆に至るまで多岐にわたっていた。
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