3.食欲の誘惑

2/33
24人が本棚に入れています
本棚に追加
/55ページ
私は暗闇の中を彷徨っていた。 何も見えない。 下の方に目線を落として見ても、自分の体さえ見えない。 もはや暗闇の中にいるのか、目が見えていないのかわからない。 そんな深い闇の中を、途方もない時間彷徨っていた。 「...。」 不意に声が聞こえた。 懐かしい声だ...。 「...沙華。 おい、沙華。起きろ。」 今度は声と共に、大きな手が私の肩に触れた。 体を揺さぶっている。 その揺れで、はっ、として振り向くと、そこは私の研究室だった。 私の肩を揺らすのは、同フロアで動物遺伝子学の研究をしている、同僚の加賀美(かがみ)木犀(きせい)だった。 「沙華、なにぼーっとしてるんだよ。」 「あ、悪い、ちょっと考え事しちまって、ははは。」 とっさに嘘をついた。 正直まだ頭がぼーっとしていたのだが、何故だかはよくわからなかった。 私は研究室にいたんだっけ...? 別のところにいた気がしたのだが、もっとこう、暗くて、不安で、何も考えられなくなるような場所に...。 悪い夢を見た後のような漠然とした感覚だけが、頭に残っていた。 「まぁ、別に良いけどさ。お前に来客だ。御堂っていう綺麗なお姉様が上の小会議室で待ってるぞ。」 「俺に?御堂?誰だ。」 「なんだ、知り合いじゃないのか?相手は沙華のことよく知ってたぜ。 ま、とにかく行ってこいよ。どうせお前の研究のことについてだろうよ。」 「ああ...。なるほどな。 じゃぁ、ま、行ってくるよ。」 私は木犀の後ろの扉を開き、上の階の小会議室へ向かった。 突然の来客は、稀にやってくる。 どこからリークしたのかわからないが、皆揃って私の研究に興味があると言った。 まだどこにも公表してはいないはずなのだが...。 あまり疑いたくはないが、研究室の学生が発信源という可能性もゼロではない。 こればっかりは、自分がいくら気をつけていようとどうしようもない。 小会議室の扉の前に立ち、ふぅっ、と一呼吸いれてから、ノックをして扉を開いた。 「失礼します。」 会議室は狭く、部屋の中央に長机が二つ、対面式に並んでいるだけだった。 ホワイドボードくらいあってもいいものだと思うが...。 奥の長机には、こちら側を見るようにして、若い女性が一人座っていた。 そして。 想像していたよりもずっと若いその女性は、言った。 「沙華さん。私をお忘れですか?」
/55ページ

最初のコメントを投稿しよう!