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5.
会社に着く頃にはすでに始業時間が過ぎていた。しかし、遅刻してしまった申し訳なさがある反面、この服装を誰にも見られずにすむ事に安堵も覚えた。いつも地味な色のTシャツにジーパンの自分が、急におしゃれな恰好をしていたら、周りがどんな風に思うか。考えただけでも不安になる。やはりこんな服は着てくるべきではなかったのだ。
「や、やっぱりもうこんな服着ない…。」
「朝からそればっか~!もっと自分に自信持ってよ桃花~!」
「だって恥ずかしいです…。」
「謙虚なのは良い事だけど、卑屈なのは良くないわよ~?」
コレッタは指をくるくるさせながらあたりを泳いだ。朝から続く同じ問答にそろそろ飽きてきた様子も伺える。営業の人たちが外に出てくる前に早くロッカーへ向かおう、そう思って足を進めた時、前方から見覚えのある姿が近付いてきた。その姿は桃花に気付くと手を振って足を速めた。
「愛崎!」
「ひぇっ!さ、ささ、はらさん…!」
笹原は桃花の前で立ち止まると「遅刻?珍しいね。」と話し始める。桃花としては一番見られたくなかった相手の出現に、思考回路が停止しているようだ。しかしコレッタはそんな二人を見てニヤニヤと楽しそうにしている。
「あれ?愛崎今日は服装いつもと違うんだな。」
「へ、え、え、へへ、へぇ、そうなんです……変ですよねっ変なんですよ、へへ。」
そう言って泣きそうになりながら俯く。(やっぱりこんなの着てこなきゃよかった。馬鹿にされる。ブスが粋がってるって思われてる…。)ぐるぐると自分を罵倒する言葉がよぎる。しかし、笹原の口から零れた言葉は桃花の予想を裏切る。
「え、なんで?全然いいじゃん。可愛いよ。」
そういうと笹原は桃花の肩をポンと叩いた。背後でコレッタが「はいきました~!」と拳を振り回している。笹原は桃花の肩から手を離すと、胸ポケットからメモ帳を一枚取り出し何かを書きだすと、それをちぎり桃花の手に握らせた。
「これから営業だから行ってくるな!俺今日直帰で早く終わるし、一緒に飯でも食いに行こうぜ!」
そう言って去っていく笹原の背と、手に握らされたメモを交互に眺めた。電話番号と、トークアプリのIDがそこには書かれていた。
結局あの後すぐに着替えて部署に向かったが、やはり部長から大目玉をくらう事は避けられなかった。しかし部長の説教も右から左へ流れて行ってしまい、まさに心此処に在らずといった様子だ。日ごろ真面目に仕事をしている事もあり、そんな桃花の様子を見て、部長も「あまり体調が悪いようなら言うように。」と締めくくって、席に戻って行った。
仕事中もどこか上の空であったが、ひとまず昼食にスマホを取り出して、貰ったIDを入力する。笹原のアイコンにタップし、トーク画面が開かれた。
「なんて送るの?」
「と、とりあえず名前…。」
コレッタが画面をのぞき込む。桃花がタップし「愛崎です。」という一文を送信すると、桃花は大きく息を吐いてスマホを閉じた。コレッタは「え、これだけ?味気な…。」と少し引き気味で話すが、桃花は「これで精一杯です…。」と机に突っ伏すのだった。
時計の針が5時を指し、就業のチャイムが会社内に響いた。ほぼ同時にスマホに手を伸ばし画面にタップする。トーク画面には笹原からの返信が届いていた。
<もう仕事終わるから、愛崎が終わるまで前のカフェで待ってる^^>
勢いよく画面から顔を離して、隣に浮いている隣に浮いていたコレッタを見る。コレッタは画面を覗くと、にやりと笑って桃花を見た。「早く!」とコレッタはそれは楽しそうに話す。桃花は戸惑ったような、それでいて口元は緩みながら席を立った。
自分のロッカーを意気揚々と開け、昨日買った黄色のチュニックに袖を通す。今朝までは自分には似合わないと思っていたけど、頭の中で笹原の「可愛いよ」の言葉がリフレインされる。
「愛崎さん楽しそうだね。」
「え。」
声の方に振り向くと、隣の部署の須藤良子が立っていた。須藤は桃花のロッカーからいくらか離れているし、普段から話すような相手でもない。むしろ、お洒落だし外見もよく、男子社員からも女子社員からも人気なので、桃花からしてみれば別世界の人間なのだ。そんな須藤が、桃花の姿を上から下まで眺める。
「それdaysの服だよね?可愛いね。」
「あ、ありがとう…ございます…。」
「今日は普段とちょっと格好違うけど、デート?」
「ち、違います!あの……ちょっと、ほんと気まぐれで…洋服買おかなって思っただけで…。」
「ふうん。あ、そういえば愛崎さんってヒデユキ好きなんでしょ?」
「え?あ、………。」
ロッカーの鍵のキーホルダーを見ながら話を振られる。こういうタイプの人はきっとアイドルオタクを嫌煙しているに違いない。ヒデユキの名前が出た瞬間に桃花の表情が曇る。そんな桃花をよそに須藤は、鞄を漁ると一枚のポストカードをよこしてきた。
「私もヒデユキ好きなんだ。これ被っちゃったから一枚上げるね!」
「え!」
「ずっと桃花ちゃんと話したいって思ってたの。今度よかったらお話しようね!」
須藤はそういうと人懐こそうに笑顔を振りまいてロッカー室から出て行った。須藤の去った場所からは、香水のいい匂いが漂っていた。所謂勝ち組に属しているだろう須藤から話しかけられるなんて思いもしなかった。そもそも存在を認知されている事に驚きだ。須藤だけではない。会社の人と仕事の事以外でこんなに話すなんて滅多にないのだ。
「ちょっと、桃花。」
「…あ、はい……。」
「浩平待ってるんじゃないの~?」
「あっ…!」
コレッタに言われて思い出す。時計はすでに五時半を差している。慌てて靴を履き替えると、走って指定された店へ向かった。
「あの、ごめんなさい、待たせてしまって…。」
「んーん、俺も今ちょうどコーヒー飲み終わった所だからいいよ。イタリアン好き?」
「え?」
急なイタリアンの単語に聞き返す。笹原はウェイターに向かって会計の旨を伝えてから支払いを済ませると「めっちゃ美味いイタリアン予約しちゃった。」と、楽しそうに笑った。
連れてこられたのは高級そうなレストラン。店も客も給仕もキラキラしており、桃花の頭の中で”場違い”という文字が大きく座った。そんな桃花の思考を読み取ったかのように「今日の桃花はお洒落してるから似合ってるわよ~。」と放った。
通された席につくと、四角のテーブルなのになぜか笹原が隣に座ってくる。そういう仕来りの店なのだろうかと辺りを見渡してみるが、そういう座り方をしている所もあれば正面に座っている所もあった。
「酒飲める?俺ワイン飲んでいいかな。」
「わ、私は、お酒は、あまり飲んだ事なくて…。」
「じゃあ俺デキャンタで頼むから少し飲んでみようぜ。すみません、この赤で。グラス2つ。」
笹原はメニューを見て、やれこれが美味い、これがおすすめだと話しながら次々にオーダーしていく。時折、嫌いなものはないかと聞いてくるが、そもそもイタリアンなんて縁がない桃花には自分が何が苦手で何が好きなのかもよくわかっていないのだ。笹原がすすめるものに悉く「じゃあそれで…。」と相槌を打った。
食事中は笹原が仕事や最近の出来事について話し、桃花はそれを聞いて頷くだけで精一杯だった。時折コレッタが「あんたも何か話しなさいよ~。」と突いてくる。「無理ですよっ。話せるような事ないし…。」と小声で返事をする。
「愛崎?」
「へぁっ…な、なんでもないです!」
不思議そうに覗き込む笹原に対し、桃花は手を顔を大袈裟に振り回した。そんな様子を見て笹原は笑いながら桃花の空いたグラスにワインを注ぎ足す。
「今日の服本当にめっちゃ可愛いね。普段と全然雰囲気違うからびっくりした。」
「あの…えと…その…と、友達が……洋服、新しいの買った方がいいって…言ってくれて…。」
「へえ!愛崎って友達いるんだな!他の女子社員も愛崎の今日の服可愛いって言ってたよ。」
桃花も倣って笹原の空いたグラスにワインを注いでみた。笹原はワインの注がれたグラスを持ち上げると、桃花にもグラスを持つように目で訴えた。その通りにグラスを持ち上げると「もう一回乾杯しよっか。」とグラスを桃花のグラスに近付けた。その時桃花にドンと衝撃がおこる。歩いていた客がよろめいたようで、桃花の椅子にぶつかったのだと思われる。その衝撃で桃花のグラスに中身が机、床、それから桃花の足元に零れる。
「あっ。」
「大丈夫?」
事態に気付くと笹原は颯爽と布巾を桃花の服に押し当てる。ぶつかったらしい客はすでにどこかへ行ってしまっていたが、近くにいた給仕が慌てたように濡れた布巾を持っていた。
「あ~!桃花の折角の一張羅!」
コレッタが大声で嘆く。昨日買ったばかりの洋服がワインに塗れてしまい多少のショックもあるが、とりあえずその場を収めないとと思い、声を絞り上げる。
「わ、私は大丈夫です。笹原さんは大丈夫ですか?」
「俺は大丈夫だけど愛崎の服、凄い濡れちゃったね…。」
水をこぼしただけならまだいいが、赤ワインはシミが残りやすいとよく聞く。もうこの服はダメだろうなと内心溜息を吐く。そんな桃花をよそに笹原はにこりと笑うと「俺もよくワインこぼして、シミ取るのうまいんだよね。」と放った。
「ここじゃなんだし、明日土曜日だしさ。店そろそろ出よっか。」
気付けば店の外に出ていた。会計は半分は払うといったが笹原が頑なに財布をしまわせるので、結局は一円も払えなかった。
今は繁華街を歩いている。自宅とは反対方向だ。笹原が何かを話しているが、うまく聞き取れない。
「ね、ねえ桃花…これってさ~。」
コレッタは桃花の周りを慌ただしく泳いでいる。顔は笑っている。というよりは、ニヤけているといった方があっているかもしれない。
「下着も新しいの買っといてよかったじゃない~!」
次第にネオンのきつい路に出る。背の高い建物の看板はどれもHOTELと書かれている。こんな路、駅に向かう時にたまに通りすがるくらいで、自分とは無縁な場所だと思っていた。
31年生きてきて、ただ服装を変えただけで、こんなに人生とは変わってしまうものなのだろうか。そういう風に世界は出来ているのだろうか。そう思うと、急にコレッタに対する感謝の念が強くなった気がした。
最初は死神なんて言うし、自分にしか見えないし、ずっと浮いてるし、邪魔だとも思っていた。しかし服を買ってみてはと提案してくれたのは誰でもないコレッタだったのだ。あの一言がなければきっと今日はいつもと同じ日だったに違いない。
「あの、コレットさん…えっと…。その。ありがとう…ございます…。」
笹原に聞こえないように小さな小さな声でコレットに呟く。それを聞くと、コレットは一等笑みを大きく浮かべた。
「いいのよ。あんたと私、友達でしょ。」
「今日まではね。」
急に聞き覚えのある声がコレッタの背後から聞こえた。グレタだ。グレタはコレッタの手を掴むと「帰るわよ。」と続けた。
「せ、先輩~…。」
「その男とうまくいったみたいじゃない。見届けれたんだからもうおしまいよ。」
「も、もうちょっと…。」
「そういう約束だったでしょ。もうこれ以上は放っておけないわ。」
「うぅ…。」
コレッタは観念しましたとでも言いたげに首をうなだれさせた。その後に、ちらりと桃花の方を見ると、少し寂しそうな表情を浮かべた。
「桃花。数日だけど話せて楽しかった。ありがとね。」
桃花はこれ以上話すと笹原に気付かれてしまうと思いと、それでもコレッタに対して何かを話したいという気持ちで揺れる。コレッタは「いいよしゃべらなくて。」と付け足してからまた笑った。
「桃花が魂狩りの対象じゃなくてよかった~。幸せにね、桃花。」
ばいばいと小さく手を振ると、昨日のグレタと同様煙のように宙に揺蕩って、そして、消えて行った。
「愛崎、ここでもい……え?泣いてる…?」
「あ、ご、ごめんなさい、泣いて、ないです…。」
「そう?ホテル、ここでもいい?」
コレッタの消えた跡を物惜しげに見ながら、目じりに溜まった涙を拭き取った。幸せにね、とコレッタが言ってくれたのだから、幸せにならなければ。そんな風に思いながら、笹原の後ろについていった。
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