最終話

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最終話

 夕飯は、村井に奢らせることにした。なんでも奢ってやる、と上から目線の偉そうな物言いが心底むかついたので、焼肉屋で特上カルビやらとにかく上のつくメニューを手あたり次第注文してやった。  村井はうろたえもせずに「よく食べるなあ、秀明は」とのほほんと笑っていた。 「勝手に名前で呼ぶな」  睨みつけたが、効果がない。俺の前に陣取り、片肘をついてじろじろと見てくる。もしかしてこれは「彼氏ヅラ」というやつではないか。一度寝ただけでありえない。こいつは本当に経験人数百人の男なのだろうか。感情移入しすぎだ。気持ち悪い。不愉快だ。 「じゃあヒデって呼んでいい?」 「駄目」 「ひであっきー」 「ふざけんな」 「ヒデ君、ヒデちゃん、ヒデリン」 「もう黙れ」  隣に座っていた兄貴が、唐突に立ち上がった。さっきからほとんど食べていないが、もしかしたら具合が悪いのだろうか。 「兄貴?」 「俺、寮帰ってるわ」  どんよりとした空気を背負ったまま、店を出て行く兄貴を目で追う俺の視界に、村井が割り込んできた。 「うぜえ」 「拗ねてんだよ、あいつ」 「拗ねるって、なんで」 「俺が秀明に惚れたから?」  おぞましい。無視して肉を口に放り込む。 「あいつ、子どもっぽいとこあるしな。自分が一番じゃないと気が済まないっていうか」  わかったふうな口を利く。こいつに兄貴を語られたくなかった。テーブルの下で脛を蹴りつけてやると、無言で小さく跳ねて、そのあとは静かになった。  黙々と肉を食べ、心の中では「だよな」と同意していた。  村井の言うことは多分正解。ただのセフレだとしても、完全に自分から興味をなくし、俺にしっぽを振る村井を見て、思うところがあるのだろう。  思い出したくはないが、いやでも脳裏をよぎるのは、貴文の件だ。  あのときみたいに変に落ち込まなければいいが。  いや、落ち込まないだろう。  兄貴は貴文を好きだったが、こいつは別だ。 「秀明」 「だから、名前呼ぶなって……」  村井の巨大な手が、箸を持つ俺の手を包み込んでくる。 「連絡先、教えてくれないか」 「はあ?」 「二人で会おう。道流には内緒で」  グローブのような手を、振りほどきたいのにできない。 「離せ、いい加減にしろ」 「兄弟だろ?」 「あ?」 「お前らはどうやったって、付き合えない」  村井の顔つきが変わった。目の奥に深刻な影を落とし、さも悲しそうな表情に見えた。 「同性が好きってだけで、迫害される世の中だ。さらに兄弟なんて、無謀もいいところだ。親が泣くぞ」  正論がおかしくて鼻で笑う。 「手ぇ離せ。肉が焦げるだろ」  村井が息をついて手をどける。 「じゃあ訊くけど。あんたと付き合ったら、いいことあんの? 誰からも祝福されるとでも? あんたが相手なら親も喜ぶってか?」  村井は俺の疑問には一切答えずに、誇らしげにこう言った。 「愛してやれる」 「はあ? 何それ、うっざ」  まるで兄貴には愛されていないような言い方に腹が立った。  肉を裏返しながら歯ぎしりをする。 「普通、惚れてる相手を男に差し出すか? 大事にされてるとは思えないけど? 俺なら絶対に、お前を他の奴には渡さない」 「……うるせぇな。そんなの……、わかってる……」  つぶやいた。  言われなくてもわかっている。兄貴は俺とのセックスを気に入ってるだけじゃないかという疑惑はある。  でもそれは、俺も同じ。兄貴を好きでも、離れている間に他の女を抱いていた。  俺たちの関係は、純愛や溺愛とは程遠い。根本には「兄弟だから」という諦めがある。 「いずれ兄貴は結婚して、家庭を持つよ。多分ね」  肉を網の上から一枚二枚と引き剥がし、たっぷりとたれを絡ませ口に放り込む。目を上げて、村井を見た。俺の言っていることがわからない、という顔だ。 「兄貴はアホだけど優等生だから。親を悲しませるようなことはしない。適当な女見つけて結婚して、子ども作って、ちゃんと幸せになる」 「お前は?」  村井は深刻な顔をしていた。他人ごとなのに。こんなふうに感情移入できるのが少し羨ましい。 「俺は好きにやる。親にも期待されてないしな」 「じゃあ」 「あー、腹いっぱい」  言葉を遮って、腰を上げた。立ったままで水を一口飲んでから、村井の大きな肩に手を置いた。身を屈め、耳に口を寄せる。 「一個だけ、頼みがあるんだけど」 「なんだ? なんでも言えよ」 「あんたは今夜、寮に帰ってくるな。朝方ふらっと戻ってきてくれると助かります」  最後は敬語で囁くと、村井は悲しげに俺を見た。ポンポンと肩を叩いてから、姿勢を正し、頭を下げた。 「ごちそうさまでした」  店を出る。夜でも気温が下がらずに、蒸し暑かった。  いつも夏だ。俺たちの関係に、何か変化が起こるのは。  始まるのも、終わるのも、夏。  寮の部屋に戻ると、ドアを開けた瞬間にすすり泣きが聞こえてきた。  兄貴だ。  本当に泣き虫だな、と笑いを堪え、二段ベッドのパイプを握って軽く揺すった。 「兄貴」  兄貴は二段ベッドの上の段で眠っていた。見上げて、もう一度「兄貴」と呼ぶ。布団のふくらみがかすかに動いて、衣擦れの音がした。 「泣いてんの?」 「……夢、見てた」 「え? 夢見て泣いてたの?」  どんな夢? と訊きながら、はしごを上って布団に潜り込む。兄貴は俺に背を向けて、端に寄る。避けたのだとわかったが、にじりより、後ろから腰に手を回し、抱き寄せた。 「ホラー? ゾンビ?」 「違う、結婚式の夢」 「誰の?」 「自分の」 「へえ、相手どんな女? 俺もそこにいた?」  自分の結婚式の夢で泣くって、なんだよと笑えたが、なるべく声に出ないようにした。 「相手の女は覚えてない。でも、ヒデが、小さな子ども抱っこしてた。お前、俺より先にデキ婚して、でも離婚して、男手一つで子ども育ててた」 「設定が細けぇな」  笑い飛ばしたが、兄貴は「あれは」と硬い声でつぶやいた。 「正夢だと思う。未来の俺たちの姿だ」 「ああそう」  そういうスピリチュアルな話には興味がなかった。わざと話を逸らす。 「肉、全然食ってなかったけど、腹減らねぇ?」 「……食べたよ」  くぐもった声が帰ってくる。 「拗ねてんの?」 「……何が」 「あの熊男が俺にご執心なの、気に食わない?」 「別に……」 「掘らせたのは兄貴だろ」 「……尻、大丈夫?」 「いてぇよ、アホ」  ごめん、と謝る兄貴の声は深刻だった。ごめん、ごめんと何度も繰り返す。黙らせたくて、兄貴の口を後ろから塞いだ。  押し殺す泣き声。 「兄貴、こっち向け」 「い、やだ……」  乱暴に肩をつかみ、仰向けにしてシーツに押しつけた。上に乗る。服をめくる。汗で濡れた肌に、キスをする。兄貴の腹が波打ち、泣き声がこだまする。  もう泣くな。  体中に触れ、丁寧に口づけて、ゆっくり、時間をかけて体をほぐした。  兄貴はずっと泣いていた。意味がわからない。わかりたくなかった。涙の意味とか、このいまだかつてないほどに、力の抜けた、ふわふわとした、優しいセックスの意味とか。  体を合わせ、揺する音。二段ベッドの上段が、ギシギシと音を立てたが、激しさはない。緩やかで、まるでブランコに乗っているような、ゆりかごに揺られているような、そんな感じだった。  そのうち、果てたのかどうかもわからないまま、眠っていた。  夢を見た。  タキシード姿の兄貴を遠くから眺めている。隣には純白のウエディングドレスを纏った花嫁。花吹雪の中、大勢に祝福される笑顔の二人。  ほら、見ろ。やっぱり幸せそうだ。  兄貴は、俺じゃなくても大丈夫なのだ。  目が覚めると部屋の中が明るかった。布団の中に兄貴はいない。身を起こすと、頬が冷たいことに気づく。枕にシミができていた。夢を見て泣くなんて兄貴と同調しすぎだ。小さく笑って、また泣いた。  バッグを担ぎ、寮を出た。  駅に向かう途中、グラウンドに寄った。フェンスの向こうで走り回る人間の中から、光速で兄貴を見つける。  フェンスに指を絡めた。力をこめる。針金が食い込んだ。フェンスが歪む。指が千切れそうなほど、痛い。  大きくため息をついて、フェンスを殴りつけてから、背を向けた。  別に、今生の別れじゃない。  年末年始か来年の夏か。いつかはわからないが、確実に帰ってくる。  だって、「兄」だから。「家族」だから。  帰ってきた兄貴を、俺はまた、抱くのだろうか。  いつまで続ける? 兄貴がタキシードを着て、花嫁を腕に抱くその日まで?  ずっとこの遊びが続くかもしれないし、もう、今日で終わりかもしれない。  わからない。  ただ一つ確かなのは、俺は兄貴が好きだった、ということだ。 「バイバイ」  つぶやいた自分の声は、無様に震えていた。 〈おわり〉
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