第一章

4/30
962人が本棚に入れています
本棚に追加
/127ページ
「うん? それは引越し蕎麦かな」  彼が一歩、歩み寄る。ふわりと喫茶店で嗅いだ複雑ないいにおいがして、思わず息を止めた。  頭の中は真っ白で、早くドアを閉めてしまいたいのに、男はなかなか乾麺を手に取らない。 「僕はルイだよ」  そこでようやく、自己紹介を求められていることに気づいた。まともに目を合わせることも出来ずに、あわあわ口を開いて、早口で、しかも小声でなんとか喉から音を漏らす。 「まま、まなか……間中(まなか)(はじめ)です」 「ふうん。よろしく、お隣さん」  ルイと名乗った男は満足したのか、やっと俺の震える手から乾麺を受け取る。俺は逃げるようにドアを閉めた。 「はあ……、はあっ、はあ……」  玄関にそのまま腰を抜かしたようになって、ドッドッと大きく耳に響く自分の鼓動を聞きながら、震える冷たくなった手をぎゅっと握った。
/127ページ

最初のコメントを投稿しよう!