1004人が本棚に入れています
本棚に追加
/208ページ
有り難いことですよ、と口を酸っぱくしてマネージャーは時東を諭す。分かっている。そして時東も子どもではない。だから、へらへらと愛想を振り撒いて、適当に間の抜けたことを言って、味が分からなくとも、美味しそうに現地の料理を食べてやるつもりだ。「わぁ、美味しい」なんて、嘘だらけの感嘆とともに。
そのロケで、運命の味に出逢えうなんて、露知らず。時東はなにもかもが面倒になって、ベッドに倒れ込んだ。部屋はいつでも快適で、季節感を感じることもない。防音室に籠っていれば、蝉の声に煩わしさを覚えることもないまま夏が終わる。昔はこうではなかった。
十代の中ごろから終わり、若さにかまけてバンド活動に打ち込んでいたあの頃。住んでいた六畳一間のアパートの部屋はもっともっと暑かった。夏は寝苦しいし、冬はどれだけ着込んでも隙間風が吹き込んでくる。ギターの騒音で隣人に怒鳴り込まれた回数も数えきれない。
けれど、生きていた。きっと、あの頃の方が時東は生きていた。ままならない、なにもかもが。今の自分を一言で言い表すとすれば、これに尽きると思った。
[1:時東はるか 9月2日2時15分]
「最近、ご機嫌ですねぇ。悠さん」
トーク番組の収録を終え、次の収録先へと向かう車内である。運転席からマネージャーの岩見に話しかけられて、時東はスマートフォンの画面から視線を上げた。
「うん。ごはんが美味しいのは幸せだよねって気持ちでいっぱい」
「って、何を枯れた爺さんみたいなことを言ってるんですか。この後、クイズ番組なんですから、テンション高めにお願いしますよぉ」
バックミラーに映る岩見の童顔に、人畜無害な笑顔が浮かぶ。相変わらず、時東と一歳しか変わらないとは思えない幼さだ。
最初のコメントを投稿しよう!