[1:時東はるか 9月2日2時15分]

2/8
1005人が本棚に入れています
本棚に追加
/208ページ
 あぁ、やっぱり、味がしない。  分かり切っていたことであるのに、食べ物を口にするたびに、少なくないショックを受ける。そしてなんとも言えない苛立ち。けれど、この感慨すらなくなってしまったら、残るのは諦めだけになるのかもしれない。  心身ともに充実して働き盛りであるべきはずの二十四歳成人男性としては、あまりにも寂しい。自嘲ひとつで、時東悠は、一口かじっただけのおにぎりを机の端に追いやった。激辛キムチ炒飯。派手派手しいパッケージに淡い期待を抱き、コンビニエンスストアで購入したものである。少し前は、刺激が強い味であれば多少は分かった。 「ストレス、か」  力のないひとり言が防音室に響く。何が原因かと医者に問われなくとも分かっている。ただ、解決策が見当たらない。  プロデビューを目指していた時東悠から、「時東はるか」なる芸名で目標を叶えて早五年。名前と顔が売れ始め、セキュリティの確かなマンションに居住を変えた。一人で暮らすには十分な2LDK。曲作りに心置きなく打ち込めるようにと、防音室が付いているものを選んだ。  けれど、この部屋に籠って指を動かすことが楽しかった日々も、今となってはひどく遠い。惰性の延長線のように傍らに置いたままのギターから視線を外して、時東は伸びてきた前髪を後ろにかきやった。  時東が時東自身で作詞作曲を行う必要性を社長は抱いていない。おまえはテレビの前でその顔で歌っていればいい。曲は提供してもらおう。そうだ。北風春太郎はどうだ。  名案だと言わんばかりに社長が告げた名前は、着実にヒット曲を生み出している若手の作曲家のもので。自分で曲を作り言葉を乗せ、歌っていきたいと願っている時東のプライドを十分すぎるほど傷つけた。けれど、今の自分の頭には、新しい曲どころか、ワンフレーズさえも思い浮かばない。長年の手習いでギターを前にすれば手は動くが、それだけだ。  五年前、デビューした当時。顔のおかげで叶ったのだと皮肉られていたことを知っている。けれど、いつか分かってもらえれば良いと思っていた。いつか。自分が生み出す曲で、歌う声で、何かを感じてくれればいい。いつか。  ただ、その「いつか」がいつの間にか見えなくなった。
/208ページ

最初のコメントを投稿しよう!