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再び唇が重なります。
何度も角度を変えては、唇や舌を貪られ。深くて執拗でした。普段クールな男性の印象はありませんでした。
何が起こっているんですか?
私は戸惑いながら、息を漏らしながらも応じてしまいました。受け入れしまいました。
唇が混ざり絡む音、2人の息の音、絡め合った指先。思考を奪います。
もう、夢でも現実でもいい。
私はただただ竹澤さんとキスをしているという事実に、じんじんと痺れていました。
でも、甘美の時は無情に終わったのです。
「……かえで」
彼はそう言ったのです。
私に向かって。瀬野愛香という女に向かって。
かえで、と知らない人の名前を呼んで微笑んだのです。
それはやはり、私が見た事のない顔でした。優しく、安心した笑顔です。
私、どうしたらいいのか分からなくなりました。言葉も出てきません。
彼は私にキスしたけれど、彼が見てるのは私じゃない。
どう受け止めればいいのか分からず固まっている私の浴衣の中に手のひらがするすると。
「えっ、ちょ、あの……!?」
竹澤さんも男性なのですから、唇の戯れが欲望に変わるのは至極当然なのです。
でも、違うんです。
私は、かえでじゃありません。
私は瀬野愛香です。
行為はそこで終わりました。
竹澤さんは胸に手を置いたまま再び眠りに入ったようです。
暫くすると寝息が規則的になりましたので、浴衣から手をゆっくり抜きました。
体を離し、そのまま部屋を飛び出して、誰も来なさそうな階段の隅で朝まで泣きました。
かえで。
泣けたのは、上司の心の中にいる人を知ってしまったからでした。
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