湖面の陽を掬う

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彼のいる場所にできるだけ顔を出したのも。彼が一度だって家に泊まって行かなかったことも。一度も高砂をかすみと呼ぶことはなかったことも。愛してると言われなかったことも。とろけるような甘い目線をくれなかったことも。 全部全部、知っていた。彼が妻を呼ぶ声を自分に重ねて浸っていただけ。まるで自分が呼ばれているみたいに錯覚しただけ。盗聴器を仕掛けて何度も、何度も何度も、その声を再生して。 だから、彼の妻が自分とは別に盗聴器を仕掛けてあるのが嫌で、結局全部取り外した。 「……っふ、ぅ、……わか、っりません……ぅ」 彼は、自分を愛してなんていなかった。言葉にしたら魔法が解けてしまう。涙がこみ上げる。 「痛い……」 自分で切り刻んだ腕が痛い。キリキリと再び痛み出した胃が痛い。痛い。辛い。苦しい。助けて。 「……大地さん、たすけて」 「助けない。誰も、貴方を助けない」 きっぱりと、どこか大地と似た顔をした弟が言い切った。 「過去がどうかは知らない。けど、そうやってずっと一人で逃げてきて、向き合ってこなかった貴方を助ける人なんていない」 「大地さん」  違う。だって、あの人は、助けてくれた。 「兄は、貴方を想わない」 「ぅ、ぇっ」 吐き気がこみ上げる。周りには袋などない。せめて見られないようにと彼に背を向けるようにして体を捩り、胃の中身を全部床にぶちまけた。吐き出しても気持ちが悪いままで、胃液まで全て、何度も、何度も。     
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