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あの絵が光月堂からなくなるのも、ヴィンセントが旅立ってしまうのも、どちらも耐えがたい。一気に両方を失うのは辛すぎる。
「それは、イヤだ」
今度は幾分はっきりと呟いた。
「コーイチ?」
何のことか訳がわからないヴィンセントは困惑したようであった。晃一は言った。
「あの絵は、オレにとっても大切な宝なんだ。だから」
どうか奪わないで。
そう続けるには気が引けた。
元々ヴィンセントの所有物で、遠路はるばる日本の片田舎まで取り戻しにきたのだ。
ヴィンセントにとっても、宝に違いない。
何でもない、と言って、晃一は絵から顔を背けた。
胸のざわつきが過去に味わった途方もない喪失感を想起させ、苦いものが口の中に広がった。
家の前を走る道を渡ると、すぐに海辺が広がる。夏は海水浴で賑わうが、この辺りは遊泳禁止区域なので滅多に人が来ない。
夕凪がやみ、潮の香りと共に海風が夏の夜を和ませる。とうに日は沈み、外に出て散歩する程度には心地よい気温だった。
夕食を済ませた後、晃一は一人家を出て浜辺に来ていた。砂がつくのも構わず膝を抱えて座り、漫然と夜の海を眺める。
黒い海はぽっかりと開いた洞穴のようで、底なしに思えた。街灯の類はほとんどないが、それでも夜空には明るいのか、星はまばらにしか見えなかった。
「こんなところにいたのか」
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