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「……ああ、迷子か」
館内アナウンスに反応した神岡が顔を上げる。
「この人混みじゃあ探すのも一苦労だろ」
「早く見つかるといいな」
「まあ尾上が迷子になったんじゃないようだな。笠松もちゃんと手綱が握れているようでなにより」
「1対1のデートで迷子って別行動でもしない限りならないような気がするが……」
「そうか?小説とかでよくはぐれたりするのはやっぱりフィクションならではの演出なのか。そのわりにはボク達の周りで迷子が頻発するんだが」
「はぐれてもスマホとかで連絡を取り合えばいい話だろう。……そういう意味で言えば尾上君はどうもスマホの扱いに慣れていないようだし、はぐれやすいのかもしれないな」
電話を掛けたらボタンの押し間違えで通話を切られた、と笠松がぼやいていた事を原田は思い出した。
そのことを伝えると神岡は思い当たる節があるのか、小刻みに頷いてセミロングの髪を揺らした。
「確かになあ。あいつ風紀でも実働部隊としての能力は抜きんでているんだが、機械操作とか……事務仕事に向いてるかっていうと微妙なんだよな。委員である限りは一通りの業務もそろそろ身に付けてもらおうと思ってるけどな」
「これまで実務一辺倒で事務作業はまだ教えていないからな。それでも同期の子らが事務中心で動いているから、上手い具合に教え合うんじゃないか」
「あの腐れ三人衆か。仲も良いし、尾上が絶望的なパソコン音痴だとしてもカバーしてくれるか……」
「……そんなにあの子は事務に向いてなさそうなのか」
「あいつが触れてこなかったのは一般常識だけじゃないってことかな」
現代を生きる文明人としてそれはあり得るのだろうか。
ますます春明の生い立ちが謎めいてくる。
「人には向き不向きがあるもんだ。それが生来の性質か単なる経験値不足かの違いはあるが、どっちにしろ尾上は生真面目に取り組んでくれるだろうよ」
上司としての目線で語る神岡は、そこで原田を見上げた。
意地悪げに口の端が上がっている。
「ところで、ヨウは何で尾上のこと『あの子』って呼ぶんだ?」
「え?」
想定外の質問に、原田が目を瞬かせる。
どうやら、無自覚だったらしい。
神岡は笑みを消し、無の表情を作った。
「……ほーん、そうか。尾上は原田にとっても特別思い入れのある奴だってことか」
「いや、ユキ、待て」
「何を待つんだ?ボクは結構前から気付いていたぞ」
「勘違いだ。ユキが考えているようなことは、断じて」
「ほーお?」
珍しく慌てているような原田の反応をしばらく眺め回した神岡。
「……そうか」と呟くと不意に顔を伏せた。
薄い肩の線がよくよく見ると震えだしている。
ぎょっとした原田が口を開こうとした瞬間、神岡ががばりと顔を跳ね上げた。
「……なーんてな。どうだ、びっくりしたか?ボクがやきもち焼いてると思ったか?」
「……は?」
「いやー尾上に対するヨウの呼称でボクが嫉妬するとお前はそんなに慌てるのかあ。心配するな。お前に関して嫉妬とかいう無駄なことするものか。きりがない」
何やら聞き捨てならないことも言われているようだが、この段階でようやく原田は神岡にからかわれていたことを理解する。
人の心を弄んでおいてケタケタと笑い転げている年上の恋人を今度は原田がじっと見ろしていると、その視線に気付いた神岡は、潮が引くように笑顔を引っ込めた。
「ははは……あー……いや、その、なんだ。悪気はなかったんだ。ちょっとした出来心で」
「悪気なしが一番タチ悪いと、何度言えば分かるんだ」
ずいと顔を近付けた原田は、鼻先が触れそうな距離で赤い瞳を睨み付けた。
「……この場で喋れなくしてやろうか」
紅玉のような瞳がまん丸になって原田を見つめる。
これでやっと黙るか……と溜飲を下げた原田は、しかし、神岡の目がにぃっと弧を描いたのを見て、顔を引き攣らせる。
咄嗟に身を引こうとした原田の首に細い腕が絡まる。見た目よりも力強いその腕に引き寄せられ、ただでさえ近かった原田と神岡の距離がゼロになった。
周囲で悲鳴のような溜め息が漏れるのも意に介さず、悠々と押し付けた唇を離した神岡は鼻を鳴らした。
「……で?どうやって喋れなくしてやるって?」
最高に癪に障る表情に、原田は口を真一文字に引き結んだまま、神岡の頭を鷲づかみにした。
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