20 水底

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自らの秩序を乱す行為により原田と神岡はひとまず展示室を2つほど突っ切ってその場からの撤退を余儀なくされた。 「お前な……いくら恥ずかしいからってボクを担いで走るな」 「……ユキを置いていっても良かったのか?」 「そこは手を掴むなりすればいいんじゃないか。余計目立つだろうが」 米俵のように原田の肩に担がれた神岡は呆れた面持ちである。 神岡が涼しい顔をしている一方で、ひと一人分の荷重を抱えたまま十数メートルを走った原田はかなり消耗している様子だった。 膝に手を当てて息を切らせている。 「ヨウって時々力にものをいわせるよなあ」 丸まった原田の背中に神岡がのし、と寄りかかる。 「ま、ボクは楽ちんだったが」 「……重い」 「これに懲りたらボクをやり込めるのはやめるんだな」 「もともとユキがふざけたからだろうが」 「はは。でも尾上の呼び方については純粋に疑問に思っているぞ?」 「普通に聞いてくれ……」 あらぬ誤解を生み出しかけた疑問を思い出し、原田が顔を顰める。 もちろん、神岡に対して後ろめたい感情があったわけではない。 だが理由をそのままの言葉で表現すると角が立ちそうで、慎重に言葉を選んでいたのだ。 そんな原田を見上げ、神岡はまたにやりと口の端を歪めた。 「どーせ、尾上に『グッボーイ』とか言いそうになったとかそういう感じだろ?」 「……気付いていたんなら余計タチが悪い」 「後輩を動物扱いしたらそりゃバツも悪くなるか。任務遂行能力の高い尾上はさしずめ警察犬候補の賢い仔犬か?」 「本人を動物扱いしてはいない」 「前に野生動物って言ってただろが」 誤魔化すなよ、と言われて原田は渋面で唸った。 人のあしらいが上手い原田は実家で犬を飼っている。その影響かどうか、一部の人間を犬を躾けるときのように扱う奇妙な癖があった。 「しっかし難儀な性格だよなあ。ヨウにとって近しくなればなるほど犬扱いされるんだから」 「なるべく本人の前じゃ出さない努力はしている」 「今のところ上手くいってるんじゃないか?敬語で自分を律しているようだし」 神岡には却下されたが、原田が普段敬語を使っているのも悪癖を抑える対処法だったりする。 それでも言動の端々に滲み出てしまうものはあるらしい。 「愛玩動物を溺愛するタイプじゃなくて、どっちかというと甘やかさずに冷静に能力を見極めてるだろ。お前にとってヒトも犬もあんまり変わらないんだろうな」 「人間としてどうかと思う」 「そうか?ちゃんと相手を対等に見られているんならいいと思う」 ようやく息の整った原田を誘い、神岡は水槽へと歩み寄った。 分厚いアクリル越しに大きな影が横切る。3頭のイルカがぴったりと寄り添いながら泳いでいるのを2人はしばらく見上げた。 「……ボクは」 神岡の低い声に、水槽から目線を外して原田は隣を見やった。 笑っていると思ったのに、神岡の白い顔には何の表情も浮かんでいなかった。 じっと青い光の注ぐ水槽に視線を固定して、神岡は小さく唇を動かした。 「ボクは、ときどき、人間がゲームの駒に見える」 力むところのない独白だった。 「どこにどんな奴を配置するか、どうすれば効率よく仕事を回せるか。そんなことはすぐに分かる。盤面に空いた場所に適切な能力を持った奴を当てはめればいい」 何が出来て、何が出来ないか。個々の能力は将棋やチェスの駒のように盤面をどうやって移動出来るか、その程度のことでしかない。 だから仕事の采配には、神岡の個人的な感情の差し挟む余地などないし、その結果役目を果たした駒がどうなろうと神岡の意識の外へと追いやられる。 「ボクは、駒を使い潰せる。そいつがどれほど消耗するか、想像することもせずに──笠松達のようにな」 「……」 「だから、ボクは上司なんかには向かないんだ」 部下に限らずあらゆる人間を消費しながら目的を達成して、何になるだろう。 切り捨てることは容易だ。 だが、人を、大なり小なり情を交わした者を踏みつけにすることを、他ならぬ神岡が許せない。 神岡を立ち止まらせ、諫める人間が必要だった。 「だからさ、ヨウ。お前はそのままでいてくれ」 ひどく傲慢な願いを、神岡は口にする。 人を使い潰したくないと言ったその一方で、神岡のために、原田を縛り付ける。 神岡が原田に手を伸ばした。触れた指先は熱く絡んだ。 「ボクに人間らしさを教えたんなら、この先も教えろ。それでボクが人の道に反しそうになったら殴ってでも、止めろ」 その言葉の意味は分かっているだろう。繋いだ指先を見つめた原田がゆっくりと顔を上げる。手に、僅かな力がこもった。 「……ユキを殴れるものか」 「それくらいの気概でいけという話だ。出来ないんなら別にいい」 「殴らなくても、止めてやる」 強い調子で原田は言った。 「ユキが馬鹿をしそうになったら喜んで止めてやる。俺にとってはいつものことだ」 出来すぎた知能に比して優しい心を持ち合わせた恋人の、柔い部分を守れるのならば本望だ。 そう誓った原田の力強い言葉に、神岡の目が煌めき、口角が上がっていく。 絡み合わせた手はいつの間にか角度を変え、固く握り合わせる形になっていた。 「……たのむぞ」 神岡の微かな呟きを聞いたのは、原田と、傍を泳ぐイルカだけだった。
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