20 水底

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「なんでだろうね……」 「はるあきぃ……」 どうにも笠松さんの根付に対する疑問が拭えず、少し考えたくなった俺はお手洗いと偽りトイレの個室にこもった。 同じ根付の付喪神であるスズは、俺の手に付いた薄い傷を見下ろしてべそをかいている。 付喪神としては若いスズならあのヤタガラスについて分かることもあるかもしれないと思っていたんだけど、そんな余裕はなさそうだった。 俺の手のひらで小さめの翼を広げ這いつくばっているスズの頭を撫でる。 「全然痛くなかったんだけど」 「いたいとかそういう問題じゃないぃ……」 「気にしてないよ」 「それが一番いけないのぉぉぉ……」 もともと俺に対しては甘く、過保護になりがちではあったものの、こんなかすり傷未満でイヤイヤと泣きじゃくるのは初めてだ。 嗚咽混じりにスズがつぶらな瞳を俺に向ける。 「春明、ごめんねえ……あの子もきっと悪意があったわけじゃないんだよ」 「スズが謝る事じゃないでしょう」 「そおだけど、でもぼくがあの子だったらって思うと……ほんとのほんとに苦しい……ううん、悲しいの」 「悲しい?俺が、悲しませてるの?」 「ちがう。春明は何も悪くないんだけど、しかたのないことだけど、やりきれないんだ」 仕方がないこと? スズは何を言っているんだろう。 本格的に泣き始めたスズにそれ以上のことは聞き出せそうにもなかったし、話すつもりもないようだった。 ぱっと俺の手のひらから飛び立つと、個室の洋風便器の閉じた蓋の上で座り込んでいる銀沙の頭に着地して、耳の間の毛並みに鈴の本体ごと埋まる。 小さくぶつぶつと呟いているから耳を澄ませてみると、「なんでもっと上手く」とか「こんなのってひどい」と詰るような言葉が聞こえて来た。 向ける先のない罵りを理不尽に投げつけられる羽目になった銀沙は、だけど、彫像のようにぴくりともしないでスズの言葉を受け止めていた。 「銀沙?」 いつもなら、こんなに大人しくスズの癇癪を聞いているはずがない。 もっとうるさいがるか、邪険にあしらうかするのに、今は甘んじて頭の上からの言葉を受け入れているように見える。 心なしか耳も伏せて、落ち込んでいるようにすら見えた。 「銀沙、大丈夫?元気がないね」 まさか風邪でもないだろう。実体のない銀沙は風邪や病気にはならない。 俺自身が元気なら銀沙の身体、というか霊体や力には影響は出ないはずだった。 それでも心配なものは心配なので、銀沙の体調を確かめるように首回りから柔らかい毛並みを探っていく。 伸ばした腕を銀沙の背中へと回した時、軽く抱き締めてみた。 自然と顔を銀沙の胸元へ寄せる形になる。鼓動は感じない。 でも喉の奥で怯えたような息遣いが確かに聞こえたような気がした。 ”春明、オレは” 「大丈夫だよ」 銀沙の言葉を俺は遮った。 きっと、あのヤタガラスの根付について大事なことを銀沙は知っていて、なおかつ隠しているんだろう。流石に分かる。 どうして隠しているのかは分からないけど、無理に聞き出す気にもならなかった。 「どうしようもないことなんだね」 身体に回した腕をほどいて銀沙の顔を覗き込むと、満月色の瞳が大きく見開かれた。 ”気付いて……” 「俺は何も覚えてない。銀沙と出会った時の夏が、俺の中で何一つ残ってない事だけは、気付いていたよ」 銀沙は気付けば俺の傍にいた。いつ俺の守護になり、一緒に暮らすようになったのか。 それを覚えていないことを自覚した時点で、ぼんやりと起きた事象を把握出来ていた。 銀沙を俺の守護に迎えた時、記憶もある程度なくしてしまったんだろう。 代償なのか、よほど衝撃的な出来事があったのか、今となっては分からないけど、仕方のない、どうしようないことだったのだ。 「きっとその中にあの子もいたんだね」 ほとんど勘で感じたことだけど、俺が導き出した結論は自分が思ったよりもしっくりときた。 だとすれば、かわいそうなことをした。 「いつか謝れればいいんだけど」 どうだろうなあ。今の様子を見る限り、かなり機嫌を損ねてしまっているようだから、距離を縮めるのは苦労しそうだ。 きゅう、と切なげな鳴き声を出して銀沙が俺を見上げる。 その顔があんまりにも情けないものだから、ほっぺたを両側から挟み込んでむにむにと口元を揉んでやる。 ”ひゃるあき” 「なんて顔してるの」 銀沙が罪悪感を覚えるのも仕方がないことなんだろう。 でもこうやってしょんぼりしていてもどうしようもない。 なくしてしまった記憶は、もう戻らないからね。 だから覚えていることや、これから覚えることは、なるべく長く守っていきたいのだけど。 「俺は、あの子が怖いモノじゃないって分かって良かったよ」 悪いモノ、怖いモノが笠松さんの傍にいたのではなくて良かった。 一番安心したのがそれじゃあ、ヤタガラスの根付に対して薄情だけれど、ひとまずは笠松さんに危害がなければゆっくり様子をみてもいいだろう。 これからヤタガラスの根付とどうやって打ち解けられるのか、考える猶予はある。 ”やっぱりあの人間が大事なんだな” 「そうだね。親しい人が怖いモノに憑かれてたら嫌だよ」 ”ごめんな” 「あやまりっこなしだよ」 ぐりぐりと銀沙とおでこを合わせる。スズも一緒くただ。 「……戻ろうか。笠松さんを待たせてる」 結構長い時間個室に立てこもっている。 少し慌ててトイレから出て来た俺に、笠松さんは軽く手を挙げた。 それに対して頭を下げる。 「腹の調子、大丈夫か」 「え?……いえ、全く問題ないです」 「そうか」 「……あ、根付、そこに入れたんですね」 笠松さんの上着のポケットが膨れているのに気付いて声をあげると、ああ、と頷きが帰ってきた。 「また落としたら心配だから」 「そうですね」 笠松さんには付喪神だとはばれていない。 ふたりは取りあえず良い関係だと判断して良いのかな。 俺の知り合いの付喪神が、どんな巡り合わせで笠松さんの元へ辿り着いたのか、一番の不思議は解決出来ていないままだけど、しばらく静かに見守っていよう。 「……あ、笠松さん。向こうにカメがいるみたいです。見に行ってもいいですか」 「ああ、もちろん」 「ありがとうございます」 もうすぐ水族館も終盤だ。 スズが一番楽しみにしていたカメを見て、落ち込んでいた気分を挙げられたらいいけど。
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