第一章 愛人

1/4
22人が本棚に入れています
本棚に追加
/12ページ

第一章 愛人

覚醒し始めた意識の隅で水が弾ける音がした。 蒼井懐は寝返りを打ち、意識を引き寄せようとした。隣にいるはずの健一郎に触れようと左手を伸ばす。だがその掌には冷たいマットの感触が返ってくるだけだった。 僅かに頭を浮かせ部屋を見渡す。ここは横浜港に近い街、野毛にあるラブホテルの一室だ。 ラブホテルと言えども男二人で入ることを断られる場合がある。だがこの街は古くから男街と呼ばれるほど彼等には寛大な街だ。 「起きたのか懐?」 彼の名は、懐と書いて「レトロ」と読む。 彼は大学の四年生で、歳は二十二歳になったばかりだ。 「ん……早いね、健一郎さん」 「すまん。今朝は女房を実家まで迎えに行かなければならないんだ」 「なんで昨夜は言わなかったの?」 「言えば懐が気を遣うだろう」 男の名は野本健一郎。彼は既婚者だ。だが三十六歳という年齢には不釣り合いなほど、風貌は若く精悍そのもので、二十代に間違われることもよくある。 二人の関係を世間一般にある言葉にするならば、恋人同士ではなく愛人関係であろう。つまり二人は不倫と呼ばれる宿命を背負い、僅かな逢瀬を重ねているのである。 「シャンプーとソープ、間違えなかった?」 「ああ。懐が用意してくれたやつを使ったよ。ありがとう」 上半身だけを起こし、長めのウルフヘアに手櫛を入れる懐の肩に、健一郎の逞しい肩から伸びるしなやかな腕が絡められる。 「懐、今朝も可愛いいよ。愛している」 健一郎の厚い胸に引き寄せられ、唇が重ねられる。懐は瞳をゆっくりと閉じた。無言の会話を交わすかのように、二人の口元は互いを求めるように動きを合わせ上下する。 懐は彼のキスがこの上なく好きだった。健一郎と唇を合わせる度に両目に涙を浮かばせる。まるでこのキスさえあれば、他には何も要らないと言わんばかりに。
/12ページ

最初のコメントを投稿しよう!