黒猫とスーツとスーツ

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「申し遅れました。私、社長秘書の絹川と申します」 突然の自己紹介。息も整ってきたところではあるものの、ちょっとびっくり。 「えっと...社内広報部の星野です」 胸元に掛かる新品の社員証。 「知ってます」 社交辞令だ。 名前も知らない人間に、猫を追いかけて欲しいなんて頼む人間はいない。 というか、苗字で呼んでましたよね。 「はあ...」 そういえば、と訳あって社長室に呼び出されたときのことを思い出してみる。 社長と、3人の秘書(と思われる)がいたが、その中にこの人物がいたという記憶はなかった。 「正確にいえば第二秘書で、本日は時雨の面倒を任されています」 「第二秘書」の言い方からして、上昇志向は強そうだ。 社長に何人の秘書がいるかは定かではないが、まさか猫に会社の人間を当てるとは。 おそらく第一秘書は、社長と親しげに話していた「神童さん」。 というか、第二秘書でこの役割というのは、よほどの愛猫家か何なのか。 「社長室にはいらっしゃいませんでしたよね」 「あそこにいた3人のうち、2人は会長の秘書なのですが」 そうなのか。 あれ? 「いや、だから」 会話がかみ合っていない。 質問には答えたくはないのだろうか。 いくらなんでも、「どうして私のこと知ってるんです?」なんて、そんな馬鹿みたいに訊きはしないのに。 「呼んでますよ」 「え?」 青々とした田園風景...といっていいのかどうかはさておき、おばあさんがこちらに手を振っている。 時雨はその隣で、丸くなっている。今にも欠伸をしてしまいそうなぽかぽか陽気だった。 「あなたは行かないんですか」 「...訊かないでください」 そこまで懐かれていないのだろうか。 疑問に思ったのも、一瞬だった。だって、今の彼の姿が答えだ。 なるほど、だから「世話をしている」のではなく、「面倒を見ている」のか。 こうして見て初めて気づいたが、頬には治りかけの傷がある。 社長は人事が苦手なのかもしれない。 「すみません」 ヒールが砂まみれになるのを気にしながら近づくと、なぜかおまんじゅうを手渡された。 「ねえ、西山さんのとこの子?」 「あの社長さん、やっと女の子の秘書とったのね」 「社長さん、優しい?」 なるほど、と数メートル後方に立つ男を見る。 時雨の方はというと、欠伸をして丸くなった。 ...その気持ち、わからなくもない。
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