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「いや、私は絹川さんに言われるまま来ただけで...」
「あらあら大変ね-、白湯いれてきたんだけど飲む?」
「あ、いや...」
「若い子はそんなの飲まないわよ」
あの人、これを押しつけたかったんだな。
「あの、時雨はいつもここに来るんですか?」
とりあえず、会話に入ってみる。
「あら、この子しぐれっていうの?」
「さすがきよさんね、いい名前だわ」
「きよさん?」
誰のことです? 尋ねる前に、話題は変わってしまった。
はぐらかされた、のか?
今年は雨が多くなるようだから、畑が心配で。
運動不足にはあの体操がよくって。
そういえばあそこの息子さんが...。
呼びつけたくせにと言ってはなんだが、私そっちのけで話が進む。
時雨はというと、賑やかな場に馴染むでもなく、かといって逃げるそぶりを見せるわけでもなく。
あの意識の高そうな社長のことだから、近隣住民とも「交流」を進めているのかもしれない。
いや、待てよ。時雨はたしか...。
「あらあら」
おばあさんの笑い声が響く。重機の機械音の中で、華やかだ。
我に返って見回すと、時雨がいない。
「でも、新記録じゃない?」
時雨は、田んぼの真ん中を我が物顔で横切っている。
時折立ち止まって見上げるような仕草をするが、何を見ているのだろう。
でも、何も植えられていないとはいえ、そのまま追いかけていくこととはできない。
絹川さんはどうするのか見ようとすると、駆け出そうとしていた。
こちらに声をかけなかったのは、緊急性か。いや、面倒だっただけか。
「失礼します」
じゃーねー と気前よく手を振ってくれるおばあさんに一礼をして、とりあえず絹川さんの後を追おうとしたときだ。
「そういえば、もうすぐ季節なのね」
「え?」
何の?
振り返っても、ただ手を振られるだけだった。
訊くな、ということか。
猫は気まぐれ、なんてよく言ったもので、すでに時雨の姿は見えない。
おまんじゅうを置いていくこともできず、ビニル包装に感謝しつつ、胸ポケットに突っ込んだ。形を気にする余裕なんてない。
走りながら、視線では絹川さんや時雨を探すものの、頭では全く別のことを考えていた。
「きよさん」と「季節」。
時雨の名付け親と思われる「きよさん」は、あそこのおばあさん達と気の合う、同年代の女性か。そして、社長に近しい人。
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