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01 - 息がつまるような暗さ
息がつまるような暗さに、ふとまぶたを閉じていたかと思ったが、そうではなかった。
暗いのは夜だからで、さらには小さい窓がひとつあるだけの室内にいるからだ。
しばらくすると、ぼんやりと闇が薄らいできて視界が大きく感じられた。
目が慣れたのかもしれない。
室内は広々としているが、窓のそばに天蓋つきの寝台が置いてあるほかは、なんの家具もなくがらんとしていた。
寝台それ自体は大きく重厚で、紫檀づくりの上等なものだ。
そこに、毛布に埋もれて子供が眠っている。
磁器人形のように肌の白い、整いきった容貌の少年だった。
そう、一目みてすぐに少年と気づいたのはなぜだろうか。
十歳にも満たない性別の違いもあいまいな小さな子供で、しかも長い髪がシーツの上に広がっている。
閉じたまぶたの豊かなまつげが陰をつくり妖艶ささえ感じさせる美しさがありながら、迷いなく少年だとわかった。
彼は息をしていないのではないかと思えるほど静謐に眠っている。
しばらく見つめているうちに、不意に少年が目を開いた。
寝乱れた様子もなく上半身を起こし、左手前方にある扉へ目をやった。
それとほぼ同時に取っ手がまわされる。
ノックもせず無遠慮に入ってきたのは若い男だ。
ふらりとおぼつかない足どりで、明かりもともさず寝台まで来て雑な所作で腰をおろす。
少年はひどく安堵しているふうだった。
男がぽつぽつと言葉を漏らすのに彼もなにか返事をしてるが、内容はわからない。
他になんの物音もせず寝台のすぐそばから見ているというのに、人の声だと認識できるだけで会話は聞こえないのだった。
しかし、すぐに声はとぎれた。
男が少年に覆いかぶさり小さな身体をおさえつけたからだ。
少年は驚いて反射的に男をふりはらう。
その瞬間、男の身体から狂気がたちのぼった気がした。
それほど異様な空気が部屋に満ちた。
少年は目にみえて顔色を失い、男がさらに手荒く触れてきてももはや抗わなかった。
剥ぎとるように夜着を脱がされるのをおののいて見ている。
一体なにがおこっているのかわからないという混乱が彼の表情に含まれていたが、男がなにをしようとしているかなどあきらかだった。
やめろ、と叫んだつもりが、声がでない。
男をつかんで遠ざけたいのに、近寄るための足が動かない。
あるのは目だけだ。
二つの目だけがここに存在していて、ただ見ていることしかできないのだと、いまさらながら気づいた。
男はまとう狂気そのままに荒々しい獣となって小さな身体に喰らいついている。
少年が悲鳴をあげると大きな手が容赦なく頬を打った。
恐怖と苦痛と混乱に正気を失いながら少年が震える声で何度も謝罪をくりかえすのが、突然鮮烈に聞こえてくる。
変声期もむかえていない子供の声であるという事実が、あまりに残酷だった。
しかし男は手加減などなく、少年をうつぶせにしてシーツにおしつけ、上からのしかかった。
次の瞬間、部屋じゅうに響きわたった叫びに急激な吐き気がこみあげる。
あきらかに性の自覚もない幼い子供を、男は躊躇なく征服している。
それも身体的、精神的にもっとも苦痛を与えるやりかたで、無理やり未熟な身体を拓いたのだった。
精通を強制された少年は、自らの身体から吐きだされたものの意味もわからず、いっそう混乱していた。
切れぎれに許しを請う少年に侮蔑のまなざしを向け罵った男へ、爆発的な殺意をもって手をのばしたとき、大きな破裂音が鳴って視界がぐるりと暗転した。
なにかに弾かれてしたたかに腰を打つ。
きしむ足でようやく立ちあがり、身体の感覚があるのに気づいた。
それと同時に光がひろがり、再び部屋のベッドの前に立っていた。
小窓からも光がさしこんでいる。
その日差しを、シーツの上に座りこんだ少年がぼんやりと見ていた。
意識がないのかと思うような虚脱した目をしている。
気が遠くなるほどの長い時間がそこにとどまっていた。
ときおり瞬きするさまを見ていなければ、完全に時がとまった空間かと思われる静寂さだった。
希望はなく、絶望すらない、ただ『無』と表現するしかないおぞましさに、思わず手をのばして言った。
「来い」
少年が、身体を震わせてこちらを見た。
おびえた顔にたまらなくなって、言葉を重ねる。
「俺が助けるから」
少年はぎこちなく後ずさった。
寝台の端まで遠ざかってそれ以上動かなくなったとき、かしゃんと耳障りな金属音がした。
見ると、寝台の支柱と少年の足首に鉄輪と革ベルトがはめられており、それをつなぐ鎖がいっぱいまでのびてぴんと張っている。
その異様な状況に言葉を失って凝視すると、少年はいっそうとり乱して「――様」と誰かを呼んだ。
それがあの忌まわしい男の名だというのか。
さしだされた手を恐れ、自身を拘束し苦痛を与える男へ助けを求めるしかない奈落のような場所に、少年は囚われている。
だからこそ、なにがなんでも連れださなければならなかったのに。
――空をつかんだ瞬間、アイディーンは自らの覚醒を自覚した。
もとより腕はわずかも動いてなどいなかった。
暗い室内である。
ホウ、と遠くでふくろうの鳴く声が聞こえた。
背中が汗で濡れて冷たいのに気づいたが、初夏だからという理由ではないのは明白だった。
ひどい衝撃がアイディーンのなかにとどまっている。
それは容易に去らず、しばらく動くことができなかった。
ずいぶんたってから、ようやく彼は立ちあがって寝台を見おろした。
簡素なそこにカシュカイが横たわっている。
苦痛も安らぎもない顔は青白く、まぶたは閉じられたままで動かなかった。
裸の上半身、その左肩から再生したばかりの腕がのびている。
アイディーンは丸二日を費やしてカシュカイの身体を復活させた。
法術に通じた者がみれば、驚嘆すべき緻密さに惜しみない称賛を贈っただろう。
肉体の再構築はそれほど困難な施術だった。
医療専門の法術士でも、身体を欠損した患者に対して傷口をふさぐ以上の治療は行わないのが普通である。
生体を、それもなくなってしまった部位を無からつくりだすには非常に高度な術力と知識が必要で、さらには本人の身体像を把握するために互いの意識を強制的に共有しなければならないからだ。
意識をつなぐと相手の記憶が断片的に流れこんでくることがある。
誰しも頭のなかを他人にのぞかれたいわけがない。
そんな弊害もあり、身体再生治療は倫理的にも忌避されがちだった。
アイディーンはその禁忌を犯したのである。
スィナンの青年が左腕を、神のしるしを失うことは最悪の事態を想像させた。
それを思えば、許しもなく記憶を盗み見たと怨まれたとして、なんの後悔もない。
――そう決したはずだった。
しかし、アイディーンが味わったのはあまりにも救いようのない悪夢だ。
いや、歴然とした過去の事実だということはわかっていたが、目を閉じ耳をふさぎたい衝動は消えなかった。
次々に現れては消える光景のなかで、老人に杖で折檻される幼子を見た。口汚く罵られるのも。
そして、動物のように鎖につながれた子供の姿が脳裏に焼きついている。
あのようなあつかいを受ける人間をアイディーンは知っていた――奴隷である。
それも〈玩具奴隷〉と呼ばれる、同じ奴隷からすら疎まれる下級奴隷だ。
人間を金で売買し無賃金で労働させ生活のすべてを管理束縛する行為は古くからあり、地方や辺境にいくほど根強くその因習は残っている。
一方で都市部でも上流社会ではかなりの需要があり、奴隷を多く抱えるのが大流行した昔の全盛期に比べれば減少傾向ではあったが、確実に取引は行われていた。
奴隷は主に肉体労働や単純作業に使われるが、まれに主人に気に入られて屋敷へ召し上げられることがある。
純粋に頭脳や腕っぷしを見込まれて自由民の地位を得たり寵愛されて妾となれば僥倖といえるが、主人の側づきになるのはそんな理由ばかりではない。
公にできない倒錯的な嗜好をもつ主人の目にとまった者は暴行や実験、異常な性癖の対象として囲われるようになる。
普段は上質の衣食住を保障されたとしても、心身への苦痛はただの奴隷とは比べものにならない。
しかし、はた目には労せず幸運をつかんだと思われるため、奴隷からも侮蔑と妬みをこめて玩具奴隷と呼ばれた。
アイディーンのなかに濁流のように流れこんできた記憶、そこで見た男はあきらかに尋常ではない嗜癖を示していた。
あのとき男の肩をつかめていたとしたら、間違いなく殴りかかっていただろう。
すでに起こってしまった過去に対して、あり得ない仮定を何度も考え、それでもアイディーンの反吐がでるような胸くその悪さはおさまらなかった。
感情をもてあましながら寝台へ腰かけ、じっとカシュカイを見つめる。
暗い部屋のなかでもなお白い顔はアイディーンの激昂を削ぐ冷ややかさに満ちていて、次第に怒りより不快な苦々しさばかりをもたらした。
アイディーンは座ったまま腕をひざに預けて重くうなだれ、長く深い息を吐いた。
いくらかして顔をあげたときにはもう激した様子はなかったが、疲労はより濃くなっており、結局カシュカイが目を覚ますまでその身体に触れることはなかった。
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