11 - カシュカイがふと漏らした

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11 - カシュカイがふと漏らした

 カシュカイがふと漏らした吐息に気づいて、アイディーンがふりかえった。  彼の気配を身近に感じるのもずいぶん久しぶりだった。  カシュカイもすぐに気づいて何事かと言葉を待ったが、主が特に用事があってこちらを見たのではないらしいのにとまどって目線をさげる。  そんな反応はいつものことだったが、彼が無意識に左耳に手をやるのは最近の癖だった。  正確にいえば、左耳を飾る琥珀色の石に触れる癖である。  存在しているのを絶えず確かめているようでもあり、触れることで気をおちつかせているようでもあった。  その蜜色の石がもつ災いをしりぞける力を思いおこして、先だって別れた人物へと意識がうつった。  「あの二人、無事に旅を終えるといいな」  彼ら――ロティとシュガルが二人だけで長旅を続けるのは、いかにも心許ない。  別れるとき、数日ぶんの携帯食を渡して火のおこしかたや水のとれる樹の種類など最低限の知識を教えてはいた。  さらに、アイディーンがまじないと称して密かに幸運を招き災事をはらう法術を施していたのをカシュカイは見ている。  それくらい危なっかしい二人だった。  彼にとってはどうでもいいゆきずりの旅人だったが、アイディーンは彼らが何者なのかうすうす気づいているふしがある。  カシュカイにしてもまったく興味がないとはいえ、ロティがデニズリの貴人でシュガルはその従者だろうというくらいは彼らの所作から想像できる。  アイディーンはロティへ旅の目的地までをも示唆していた。  思慮深い主の言葉にはいつもなんらかの意味がある。  ただの思わせぶりや冗談でいたずらに人を惑わせることなどしないとあの少年が信頼したなら、彼らはいまごろデルスへ向かっているだろう。  アイディーンとの旅は、こうした人々との交流の連続だった。  かつてカシュカイがひとりで魔種狩りをしていたころ、人間と関わる機会がはたして幾度あっただろうか。  魔族はめったに人里には現れず、自然の気流を食事として森の樹木の上で眠るカシュカイにとって、村や町へ入る理由がなかった。  スィナンとしてみつかれば騒動になるという以上に、人々の生活に浸透した文字という存在が真言(エウェット)に関わる彼に与える負担は大きい。  努めて意識を閉じ、人間の生活圏にあふれる文字を認識しないようにしていても、危険は常にある。  たったひとつの文字ですら身を滅ぼす、その毒性は周囲が考えるよりはるかに強大なものだ。  アイディーンたちはこれからデニズリの首都バハールへ入る行程をとっているため、カシュカイはいつものように、周りへの注意力や警戒を意識的に閉じなければならなかった。  彼らがしばらく歩いた先に、宿場というほどの規模もない簡易の建物やテントが張られた市場があった。  周辺の集落から農作物や雑貨がもち寄られているらしくにぎわっている。  ここで商売をするならいっそバハールまで行けばいいくらいの距離だが、聞けば都での商いの許可がおりなかったり税を支払うと採算がとれない小規模の店が集まっているらしい。  こんな場所には似合わないアイディーンのあかぬけた容姿に驚きながらも、果物屋の女は気安くそんな事情を教えてくれた。  しかし、続く声音はいくぶんか低く、いかにも不穏な響きをただよわせる。  「あんたがた、都へ行くなら気をつけたほうがいいよ。バハールの北方でスィナンの一族が暴れているっていうからね。いつ都まで来たっておかしくないよ」  思いがけない名が話題にあがって、アイディーンは一瞬虚をつかれた。  「スィナンが人間を襲っていると?」  「そりゃもう、ずいぶん殺されたらしいよ。魔属を操って街をめちゃくちゃにしているとか、ひどいもんさ」  先の暗黒(カラバー)期にスィナンの一族が封じられてから百年近くを経ていながら、多くはないもののいまだに世界各地で目撃例は絶えない。  封じたといってもひとり残らず捕らえられるはずもなく、また彼らは人よりはるかに長命なために、外界で生きながらえていたとしても不思議はなかった。  しかし、スィナンの一族と魔族の外見的特徴が酷似していることや、スィナンの一族に魔属を操る力などないことなどを考慮すれば、おのずと女の言うスィナンとは魔族だろうと察せられる。  とはいえ、魔族が街なかに現れて魔獣を扇動し暴れまわるという事態もかなり異常ではあった。  カシュカイはとくになんの反応も示さなかったが、アイディーンのだした結論にはもちろんたどりついていた。  何人かの店主や道行く人に尋ねてみると、バハールのほうから来た者たちはみな果物屋の女と同様の話をしたので、根も葉もない噂話ではないらしい。  二人は市場のにぎわいを楽しむひまもなく通りをぬけると、足早に先を急いだ。  首都バハールまでは平坦な道で、徒歩でも半日かからない。  小高い丘の上に街の堅牢な防壁がみえてきた時分でも、まだ日は沈まず明るかった。  アイディーンはこれまで何度もやったように共鳴石でアービィを呼びだそうと試みたが、案の定向こうからの反応は得られなかった。  先日、森のなかでカシュカイと通信して以降ぱったりと途絶えている。  カシュカイはアービィが頑として言わなかった事情を、どう主に伝えるべきかわからなかった。  「これはもう、なにかあったと思うべきだろうな」  アイディーンは少しずつ増していた危機意識をさらに強くした。  もとは北へ向かうというだけの簡潔な行程だったはずが、ひとつ、またひとつと予定外の事態にまきこまれ、いつのまにか大きく道をそれている。  いままた法術士と連絡がつかない異常と魔族が暴れているらしい情報に阻まれて、予定はすっかり狂ってしまっていた。  こういう予定外の煩瑣が続いて、やがてとりかえしのつかない大きな厄介ごとになると経験から知っているアイディーンは、自身に警鐘を鳴らしているのだった。  彼らが行きついたバハールの南門は、東西南の三方にある門のなかでもっとも大きく、もっともにぎわっている。  日暮れとともに門は閉ざされてしまうので、そのまえに出入りをすませようとする商人や旅人でいっそう混みあっていた。  どことなくぴりぴりした空気が流れているのは、北方での凶事が街じゅうに伝わっているからだろう。  人波をかきわけながら進むアイディーンを見失わないよう歩いていたカシュカイだったが、勢いよく向かってきた大きな男に正面からぶつかられてしまった。  あっという間にかぶっていたヴェールが肩へ落ち、さらに舞って石畳の床へ広がった。  拾おうととっさに手をのばした瞬間、そばで悲鳴があがる。  「おい、スィナンがいるぞ!」  スィナン、という言葉に、わっと人々がしりぞいた。  「き、北で暴れていた奴だ」  「やっとここまでたどりついたのに、こ、殺される!」  北方の騒ぎから逃れてきたらしい者たちの狂乱した声で、あたりはたちまち騒然となった。  一刻もはやくこの場から離れようと、人々がいっせいに走りだす。  慌ててころげる者、それを踏みこえて逃げる者、怒号と悲鳴が加わり混乱が広がった。  アイディーンが異変に気づいてひきかえそうとしたときには、逃れようとする人波に流され逆行するのも容易ではなかった。  ようやくカシュカイのもとへ戻ってみると、すでに周囲はぽっかり穴があいたように人っ子ひとりいなくなっている。  「カシウ、大丈夫か」  アイディーンが声をかけると、ヴェールを手に持ったまま立っていたカシュカイが、無表情というより呆然とした様子で主を見、それから我にかえって謝罪を口にした。  自らを封じこめるようにヴェールを深くかぶって顔を伏せる彼の肩を抱いてアイディーンは「おまえのせいじゃない」と強く言った。  実際、人々がこれほど過敏な反応を示したのは、まさに北方を蹂躙(じゅうりん)している魔族に原因がある。  普段、スィナンの一族が街なかに現れたとしても、ここまで大げさな騒ぎにならないのは確かだ。  悪辣非道のスィナンのそばに人間がいるのを見て、野次馬根性のある者が幾人か遠目に様子をうかがっている。  この場から身を隠すべきかとアイディーンが思案していると、不意に手足にしびれがはしって硬直した。  石膏でかためられたように寸分も動かないのは、捕縛の法術による反応だ。  唯一自由になる首をめぐらせると、少し距離をとった場所で数人の兵が印を組んでいる。  そろいの制服は王宮の近衛兵のものだ。  誰かが宮へ知らせたらしかった。  それにしても、警告もなくいきなり実力行使とはいかにも乱暴なやりかたである。  厳しい顔つきの兵は「動くな」と口々に言って包囲網をせばめてくる。  「たしかにスィナンの一族だな」  兵隊の長とおぼしき壮年の男が、カシュカイのヴェールをつかみとって不気味そうに見やった。  それからアイディーンをしげしげと観察する。  「おまえは人間か。スィナンとどういう関係だ」  「俺たちは旅をして、先ほどここへ着いたばかりだ。北方で騒ぎをおこしているスィナンとは、なんの関係もない」  アイディーンは消えない手足のしびれに顔をしかめて言った。  わざと苦痛を与えているとしか思えない強力すぎる施術だ。  隊長はあざ笑って言った。  「この騒動のさなかに大衆の前へ現れて、そんな言い逃れが通用すると思っているのか。変化する髪と目、とがった耳、白い肌の痩身、北方での目撃談と寸分たがわんなり(・・)だ」  「北の地にいるものが瞬時にここへ現れたとでも? 馬鹿げた考えだ」  「スィナンのことだ、あやしげな術を使ったとしても驚かん。それに、見るがいい」  隊長は唐突にカシュカイの左手の甲当てをはぎとった。  深い藍で刻まれた風と光の紋章がさらされる。  「やはりな。北で暴れているスィナンの手の甲には、神の紋章があったという。これが証拠だ。神に唾吐いたスィナンが神のご加護を得ようなんぞ、身のほど知らずもはなはだしい」  「違う、それは」  アイディーンの反論を男はうるさげにさえぎった。  「言いたいことがあるなら王宮で好きなだけ言え。まあ、どうわめいたところで極刑だろうがな」  嗜虐的な顔をした隊長に、初めてカシュカイが口をひらいた。  「捕縛を命じられたのは私だけのはずだ。その人は関係ない。すぐに法術を解け」  その目にあるのは怒りだ。  主を辱め苦痛を与えた者に対しての、当然の怒りだった。  すでにカシュカイの周りには精霊が集まりはじめている。  渦を描くようにして濃密になっていく気配に、アイディーンが鋭く制した。  「やめろ、カシウ」  それは、この男を傷つけたとき与えられるだろうカシュカイへの負荷を危惧したからだ。  人間に危害を加えられない法術の縛りを受ける彼がどれほどの懲罰を受けるか軽視できない。  しかし、カシュカイは主に強くいさめられたことのほうにショックをうけ、顔をこわばらせて小さく謝罪した。  直後に精霊も散じてしまったが、法術士ではない隊長は精霊を見ることもできないため、二人の意味のわからないやりとりに苛だっただけだった。  「スィナンの分際でえらそうな口をききやがって、何様のつもりだ」  言いざま、カシュカイの髪をつかんで顔を近づける。  もはや青年は抗わなかったが、その目が細められた瞬間、隊長の全身にぞっと寒気がはしって乱暴に身体をつきとばした。  「くそっ、不気味な種族だぜ、スィナンってのは。おい、連れていけ」  もう触りたくもない、というように男は数歩さがって腹だたしげに部下に命じた。  後ろ手に頑丈な金具で拘束された二人は、追いたてられながら歩きだした。  『ここで騒ぎをおこすより、王宮で事情を説明したほうが確実だ。不快だろうが、しばらく我慢してくれ』  アイディーンは精霊に言葉を運ばせてカシュカイへ届けた。  彼はわずかにうなずいたが、その横顔は乱れた髪にさえぎられて表情をうかがうことはできなかった。
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