13 - デニズリの首都バハールから

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13 - デニズリの首都バハールから

 デニズリの首都バハールからまっすぐ北上して大陸の端までいくと、港街マニサがある。  少し手前には特筆すべき点もない小さな街があった。  その場所がデニズリの人々の記憶に深く刻みこまれたのは、大統暦三四〇年十一月だった。  ――アイディーンがバシュカへ着いたころ、日はすでに中天をすぎていた。  昨夜、王宮をでてからほとんど睡眠もとらず転移陣をつかい馬をとばしてきたが、気力は満ちている。  気力、というより怒りといえるかもしれない。  それはデニズリ王宮へ対してのものだ。  カシュカイを連れ、力ずくで王宮を脱するのはむずかしくなかった。  しかし、それではカシュカイの嫌疑を晴らしたことにはならない。  「どうッ」  手綱をひくと、よく訓練されているらしい黒馬はさして背をゆらさず足をとめた。  低い防壁で囲まれた小さな街、その内側で土煙があがっている。  向こうにみえる街門と壁の一部が崩れ、魔獣の姿もあった。  太陽を嫌うはずの獣たちがまだ日も沈まないうちからうろついているところをみると、魔族の干渉があるのは間違いない。  馬がおちつきなくひづめを鳴らしはじめたので、アイディーンは馬をおり徒歩で街へ入ることにした。  魔獣にみつかる面倒をさけて、適当なところで壁をのぼる。  街なかを見渡すと、かなり簡素なつくりの小さな家が連なっていた。  大きな建物がほとんどなく、おそらくもっとも高かっただろう鐘つき堂には亀裂がはしり屋根が崩れている。  あちこちの家も破壊され煙があがっていたが、それとは別に街の三分の二ほどを占める広い区域が放棄され荒れ果てているのが目にはいった。  もとは家だったらしい囲いの壁ははがれおち、木の柱は折れて傾いている。  石畳がはがれて土がむきだしになった道には雑草一本すら生えておらず、墨を溶いたように黒々としており、それは放置された田畑も同じだった。  まがりなりにも人の暮らしのにおいのする街とくらべて、その空間は異様な暗さをただよわせている。  奇妙な街だ、という感想をのみこんで塀をおりようとしたとき、アイディーンの袖をつかむ者があった。  「シャルキスラ様」  「アービィ」  アイディーンは驚いてビジャールの法術士を見おろす。  長く連絡のとれなかった男がこんな辺境の地にいる偶然をいぶかしむより前に、彼はひきずるようにしてアイディーンを壁の外側へおろした。  「お久しぶりです、シャルキスラ様。ずっとご連絡せず申し訳ありません」  「……この騒ぎに関係があるようだな」  「すべてお話しします。ともかくこちらへおいでください。魔獣どもにかぎつけられるとやっかいですから」  アービィに案内されたのは街の北にある小高い丘だった。  外敵を監視する古い物見塔があり、そこに多くの住民が避難していた。  街に法術士がいたのか、一帯に微弱ながら結界がはりめぐらされ防衛の態をなしている。  二人を迎えいれた住民たちは口々にいたわりの言葉をかけてきた。  「旅の人かい、よく襲われずにすんだもんだ」  「悪いことは言わん、来た道をひきかえしたほうがいい」  「ここはスィナンから呪われているんだ……」  スィナン、という単語にアイディーンは反応せざるをえなかった。  「本当にスィナンに襲われているのか、この街は」  問うと、そうさ、と住民のひとりが応じる。  「どういうわけか、かの一族はバシュカがお嫌いなのさ。あんた、街のありさまを見てきたんだろう、あばらやばかりの家と、いまだ手のつけられない荒れ地を。忘れもしない昨年の初冬、たったひとりのスィナンがここら一帯を破壊しつくしたんだ。ようやくここまで復旧したってのに、奴はまたおれたちからすべてを奪おうっていうのか……」  だんだんとおえつまじりの独り言になっていった住民を、周りの者たちは力なくなぐさめる。  アイディーンの胸中には〈デニズリの一戦〉という言葉が占めていた。  王宮でメユヴェ王女からバシュカの名を聞かされたときからひっかかっていたのだ。  暗黒(カラバー)期に突入して以降、初めて大規模な魔獣の発生が確認された。  しかし、デニズリはその事実を他国から隠し後手にまわる対応に終始したため、被害は甚大になった。  のちにようやく情報が公になり、主国ビジャールからの援軍によって魔獣は駆逐されたのである。  「シャルキスラ様」  沈黙していたアービィがアイディーンを部屋の隅へいざなった。  「街の者が口にしたこと、事実と思われますか」  「スィナンが……カシュカイがやったか、ということか? 少なくともいまおきている騒動はあいつには関わりない。俺はそれをあきらかにするためにここへ来た」  「では、なぜ大気のマラティヤは一緒ではないのですか」  「デニズリ王宮の疑惑がここの住民と同じだからだ。カシュカイは王宮に足止めされて身動きがとれない」  法術士の男は考えこんで、それは確かなのか、と念をおした。  「アービィ、おまえも疑っているのか。街のまわりには魔獣がうろついていた。日中から獣たちを動かせるのは魔族の技以外にない。それに、カシュカイはずっと俺と行動を共にしていたんだ。もとより、あいつに人間を殺せるはずがないのはおまえもよく知っているはずだ」  アイディーンがこれだけ証拠を並べても、スィナンであるという理由ひとつで、あの一族ならばやるかもしれないと理屈ぬきの恐怖がわきおこる。  それは普通の市民より多くの知見をもつ国属法術士であっても逃れ得なかった。  さらに、大きな疑念が横たわっている。  「シャルキスラ様は、大気のマラティヤの左手にある紋章がどうなっているかご存知ですか」  アービィは声をひそめ、そろりとさぐるように尋ねた。  歳若い大地のマラティヤが、運命の伴侶についてどこまで知っているかを測ったのだった。  脈絡のない質問に、アイディーンは眉をひきよせながらも浅くうなずく。  「風と光のことか」  「そうです、ご存知なら話がはやい。街を襲撃した魔族に私の部下のひとりは殺されました。そのときに見たのです。顔かたちは別人でしたが、魔族の左手の甲に風と光の紋章が刻まれているのを」  魔属と神は決して相容れず、ただの紋章といえど神のしるしを魔属がもつことはできない。  スィナンと神にしても相容れないのは同じだが、可能か否かという点のみでいえば、スィナンが神のしるしをもつのは不可能ではなかった。  そのことをアービィは言ったのだ。  だから、あれは大気のマラティヤ以外ではありえない、と。  アイディーンは沈黙し、返答しなかった。  反論の言葉につまったのではなく、やはりという諦観が彼を覆ったからだ。  バズルリングの根城で遭遇した魔族と、その男が奪ったカシュカイの腕の行方について、これほどたやすい推測はない。  たしかにあの魔族の男は、大気のマラティヤの腕を魔族の青年アーシャーに与えたと言った。  魔族を知る者なら誰もが、彼らがどれだけ正気を疑うようなこころみも遊戯と暇つぶしを理由にやってしまう狂者だと理解している。  しかし、彼らが興味を示すのは常に遊びに対してであって、人の俗世に関与して謀略を策するとは考えられない。  一方で、アイディーンはあの魔族が明確な目的をもって策謀をめぐらせたのだと、確信してもいた。  アーシャーを人間に蹂躙された復讐の意図はあったかもしれない。  しかしそれはあくまでついでで、目的とはもちろんカシュカイに他ならなかった。  死んだ彼の肉体か生きた彼自身なのか、どちらを欲しているのか知るよしもないが、魔族の男がカシュカイを手に入れるために画策しているのは確かだ。  危険をおかして神の紋章を刻まれた腕を魔族に接合したこと、糧を得るためではなく殺戮そのものを目的に魔獣を操って人間を襲わせたこと、あえてその腕をさらして人前にでたこと、考えればきりがない。  アイディーンは魔族の行動に対して後手にまわってしまった現状を、認めないわけにはいかなかった。  過日バズルリングの城で対峙したとき、あの魔族を殺しておくべきだったのだ。  それは遅すぎる後悔だった。  アービィは物言わないアイディーンをどう思ったか、ややあって言った。  「シャルキスラ様が森を進んでいらっしゃったとき、わたしは部下からスィナンが街を襲撃しているらしいと報告を受けていました。しかし、シャルキスラ様との通信は当の疑惑である大気のマラティヤを介していたため報告がかなわず、連絡を断つほかなかったのです」  責める口調ではなかったが、ためらいがちに続ける。  「シャルキスラ様よりいただいたご命令についても、すべての元凶はこの街を襲っていたもの(・・)と断定できます。ここと同様に、首都バハールをも魔獣に襲撃させたのだと」  バシュカを襲うもの(・・)とは言外にスィナン、さらにいえばカシュカイを指しているのだろう、それはもう事実としてバシュカの住民たちに刻みこまれている。  そこで、アイディーンの脳裏に疑問がうまれた。  「アービィ、この街の者たちは昨年おきた〈デニズリの一戦〉で街を破壊したのもいまの騒ぎも、ひとりのスィナンが原因だと思っている。あの一戦では、カシュカイは大気のマラティヤとして魔獣を一掃したんだろう。だが、住民たちはいまの騒ぎを大気のマラティヤがおこしているとは考えていない。それはなぜなんだ」  「……シャルキスラ様は先の一戦のことをご存じないのですね」  アービィはいっそう歯切れ悪く、逡巡する様子をみせた。  言わずにすませようかという彼の意識の後退を、アイディーンは強いまなざしでとどめて、言葉をおしださせる。  ビジャールの法術士は、重く這うように口をひらいた。  「バシュカの南方での魔獣の爆発的な発生から事はおこりました。主国ビジャールからの干渉を嫌ったデニズリ王宮は、情報の一切が国外に漏れないよう緘口(かんこう)令をしきました。しかし、王宮へは責任を問われるのを恐れた現場の役人から過小な報告しか届かなかったため、対応が遅れたのです。一国では手にあまる状況になったころ、ようやくすべてが(おおやけ)となりました。  ビジャールは、各国との協定をやぶり魔属発生報告の義務を怠ったデニズリが拒否できないのを好機とみて、バシュカを実験につかうことを秘密裏に決定しました」  実験、などという不穏な言葉が否応なく話の先を暗示していた。  アイディーンはすでに、カシュカイに関する闇をのぞきみることになるだろうと暗い予感をもっている。  他者からスィナンの青年の話を聞かされるとき、いくら拒もうとしてもそうせざるを得なかったのだ。  「実験とは大気のマラティヤについてです。わたしは直接関わっていませんが、ビジャールやシヴァスの上層部では、スィナンを大気のマラティヤに仕立てあげる(・・・・・・)ために、あらゆる研究をおこなっていたといいます。その一環として、大気のマラティヤを真言(エウェット)の使い手にしたのです」  「真言、だと」  思わず声をあげたアイディーンを、周囲の人々が驚いて見た。  彼は右手を口におしあてたが、それは周囲を気にしたのではなく衝撃が大きかったからだ。  真言がどれほど危険なものか、彼は身をもって知っている。  ――現存する、世の中にたった二人の真言の使い手の一人がシヴァスにおり、王宮直轄の施設の奥深くに隠されていた。  アイディーンは幼い日、特別に面会を許されたことがある。  その人物は当時すでに老齢の域に達した女性だった。  生まれつき盲目だった彼女は文字の手習いが遅れ、貧民ゆえに身売り同然でシヴァスの特殊な研究機関にひきとられた。  それから十年以上をかけて十七つの古代言語を学び、幸か不幸か彼女自身の適性もあって真言の習得に至ったという。  彼女には法力はわずかもなかったが、真言によって法術以上のことができた。  実際にいくつかの真言で風をおこしたり火の球を灯したりするのをみせてもらったが、その発声や抑揚はきわめて特殊で、聞いて真似できるようなものではない。  また、その真言の習得に失敗した者がどんな末路をたどったかを、追体験させられたのである。  彼女がひとつふたつ真言を口にしたとたん、アイディーンの頭のなかに狂気が襲いかかってきた。  心身のすべてをちぎり、ひき裂かれ、絶望の無に侵される狂気だ。  永遠に感じたそれは、しかし一瞬にも満たないできごとだった。  幼いアイディーンの身体から全身が濡れるほどの汗がふきだし、破裂するような心臓の音を聞きながら、目を見開いて彼女を見た。  老婆はうっすらと笑っていた。  ただひと文字を覚えるという禁忌をおかすだけで、これほどの代償を支払うことになる。だから、ビジャールにいるもうひとりの使い手は自ら目をつぶしたのだと彼女は言った。  ――アイディーンはめまぐるしく過去の記憶を反芻する。  カシュカイと出会ってからの記憶をだ。  あれほど無頓着に文字の氾濫する街なかに身を置いていたのを思いかえして、心底ぞっとした。  彼に本を読むかとすすめたことがあった。  地図をひろげて彼に示したことも。  あのとき、カシュカイはどんな反応をしていたのだったか。  そもそも、なぜビジャールにいてすらシヴァス語をつかっていたのかを疑問に思うべきだったのだ。  真言がもたらす言霊の影響により、真言の使い手は世界のあらゆる語族に精通していながら、もっとも単純な言語構造のシヴァス現語でしか意思伝達ができない。  真言からもっとも遠いといわれるこの言語ならば、多少発声に無頓着でも超常現象がおきにくいからだ。  心にひっかかりをおぼえながら尋ねもしなかったことが苦々しく不快をともなった。  アービィは気遣わしげにアイディーンを見る。  「……大気のマラティヤが〈マラティヤ〉にふさわしい力を有するかどうか、真言の力でためそうとしたのが、デニズリの一戦だったのです」  さらにいえば、謎の多い真言の力そのものの検証実験をしたのではないか、とはアービィが当時から疑念をいだいていたが、それはさすがに主国をはばかって口にできなかった。  「滅びに関する真言によって、魔獣の全滅はもとよりバシュカそのものがほとんど死地となりました。シャルキスラ様も街の荒れ地をご覧になったでしょう、いまだ草一本すら生えないため農地にも牧場にもならず、家を建てようにもあそこへとどまっていると病にかかる。あの土地は一度完全に死に絶えたからです」  バシュカの住民はことごとく退去させられ、そこへカシュカイひとりが投入された。  すべての指揮をとったビジャールは民になんの説明もせず、スィナンの青年が何者かもあきらかにしなかったに違いない。  バシュカの人々ははるか遠い主国の横暴より、手の届かないデニズリ王宮の無能さよりも、自分たちの目の前で魔獣もろとも街を壊滅したスィナンを恨み呪うことを選んだのだった。  マラティヤのひとりがスィナンの一族だと知らない者は多い。  たとえ知ったところで、カシュカイへの認識が改まるとはとうてい考えられなかった。  理屈ではなく、バシュカの民はひたすらスィナンへ向けるほかに憤懣のやり場がないのだとアイディーンは察したが、今日まで力ない呪詛を吐き続けるだけの彼らの目は澱んで重苦しい。  その負の呪念、殺された魔獣たちの怨嗟にまとわれ死した地に立つカシュカイは、どんな顔をしていただろうか。  あの戦闘からまだ一年もたっていない。  アイディーンはスィナンの青年が過去負ってきただろうあらゆる種の傷について、そのひとつひとつを深く思慮しないようにしていた。  思いを寄せすぎると、苦く痛みをともなう感情をカシュカイが過敏に察してしまうからだ。  しかし今回のような理不尽に過ぎる現実に直面すると、多くを考えずにはいられなかった。  「アービィ」  しばらくしてアイディーンが呼びかけたとき、彼の顔は平静としていた。  アービィにはそのようにみえて、少し安堵して「はい」と答えた。  「おまえが見た光と風の刻まれた腕は、確かにカシュカイのものだ。あれは魔族がカシュカイから奪ったものだからだ。俺もそれを自分の目で見た。奴は腕をもうひとりの魔族に接合して、悪趣味な遊びを始めようとしている」  「待ってください、もうひとり(・・・・・)? 魔族は二人いるのですか」  大気のスィナンの腕が魔族に奪われた話に驚く以上に、アービィは魔族が二人組であるという悪夢のような事実に声をあげた。  「紋章をもった魔族はアーシャーという。その魔族を道具のように扱う者が、もうひとりいたはずだ」  「いいえ、シャルキスラ様。数日ここに潜伏していますが、断続的に街なかで暴れているのはそのアーシャーという魔族だけで、獣どものほかに仲間を見たことはありません」  アイディーンの表情がにわかに険しくなった。  「手分けしてほかの街を襲うつもりなんでしょうか」  動揺に揺らぐアービィの言葉をさえぎるように、アイディーンは立ちあがった。  「街へ行ってくる。アービィはここの結界を強化してくれないか。いまの状態ではこころもとない」  「は、はい」  法術士の返事が聞こえたのかどうか、青年はもう階段のほうへ歩きだしていた。  物見塔の一階の裏手にある厩舎につないでいた馬をひきだしてとび乗る。  丘をくだり街へ馬を走らせるあいだも、アイディーンの表情はかたいままだった。  嫌な予感がする。  ふたたびあの魔族の後手にまわっているのではないだろうか。  馬が街の防壁まで到達すると樹木の陰につないで隠し、アイディーンは正面の門から魔獣を処理しながら街へ入った。  アーシャーしかいないのなら、隠密に行動する意味もない。  街のなかはどこも土煙でもやがかって息苦しいほどだ。  アイディーンが周りを見渡すと、さがすまでもなく右手奥の通りからどおんと衝撃音がひびき、続いて瓦礫のくずれる音がきこえてくる。  もうもうと土埃がまいあがる現場へ行くと、かろうじて残った塀の上に魔族の青年の姿があった。  バズルリングの城で囚われていたアーシャーだ。  自由の身となった彼は秀麗な細面にこの上なく無邪気な笑みをうかべて、アイディーンを見おろした。  その左腕が薄青黒くくすんでいるのに気づいたアイディーンは、さらされた手の甲の紋章が本来の形をそこなっているのを見てとった。  意匠化された優美な姿であるはずの二つの紋章は、不規則なひずみを生じさせて崩壊しはじめている。  やはりというべきか、魔属と神のしるしとは相容れるものではなく、アーシャーの腕はいずれ腐りおちるだろう。  その影響が彼自身にもおよんでいるのは想像にかたくない。  同胞を玩具のように扱ってみせたあの魔族は、本当に単なる捨て駒としてアーシャーをバシュカに放ったらしかった。  「アーシャー」  アイディーンが呼びかけると、青年は電流にでも触れたように身体を震わせて目じりをつりあげた。  名による術的強制力が働いたのに反応したのだった。  「おまえはここでなにをしているんだ。バシュカを滅ぼすつもりなのか」  「エフェスが言った。遊んでいいって」  警戒しながらもアーシャーは素直に答えた。  ただ、妙に舌たらずで間延びしたしゃべりかたをする。  以前バズルリングで見たときよりもおちついているようだが、正気というわけでもなさそうだ。  「エフェスというのは、おまえの同胞のことか」  「ここで遊んでいいって、エフェスが言った」  「……そのエフェスはどこにいる」  「エフェスは、ここじゃない」  アーシャーは不意に左腕をかきむしっていらだった顔をした。  異様な色の腕はたちまち傷だらけになったが、血はでない。  青年は塀からとびおりると、その不快さをぶつけるように前触れもなくアイディーンへ襲いかかった。  とっさによけたところへ、いつのまにか近づいていた魔獣が二頭、左右からとびかかる。  四つ目の獅子の姿をした獣はアイディーンを完全に覆ってしまうほどの巨体だったが、その目的が達せられる前に法術の障壁にはねとばされて後退した。  アイディーンは体勢をととのえて腰の大剣を抜きはなった。  獣たちの第二撃をかわし、身体を低くすると恐るべき速さで毛深い腹を切り裂く。  ギャッと短い断末魔をあげて地に伏した獣がこと切れるより先に、もう一頭が大きすぎる爪をふるった。  アイディーンは横転してさけたが、右腕には一瞬で鋭い裂傷が刻まれる。  巨体に見合わず俊敏な魔獣だ。  あの牙か爪にわずかでもひっかかれば、人間の身体など熟れたいちじくと同じようにたやすく臓物をぶちまけるだろう。  アイディーンは細かな傷をつくりながらも獣の攻めを二度、三度と剣で耐えた。  合間に法術を使おうとしたが、精霊の数が異様に少ないのに気づいてやめた。  死した土地とアービィが言ったとおり、ここは地属の力がひどく弱い。  何度めかに獣が牙を向けてきたとき、アイディーンは大剣に食いつかせて足で横腹を蹴りあげた。  魔獣も普通の獣も急所はほとんどかわらない。  一時的に呼吸ができなくなりよだれをたらす異形の獅子ののどもとを正確にねらって、彼は剣先をつきたてた。  その勢いのままふりむきざまに懐の短剣を投げると、正確にアーシャーの右腕を刺しつらぬいた。  声はあげなかったものの、驚きに目を見開く青年の表情が怒りにかわるあいだに、アイディーンは術文を唱える。  「この地にふりそそぐ精霊よ、光の神アヴァノスの名において……」  輝きの渦が上空に現れ、見る間に規模を拡大していく。  不毛の地に精霊を呼びこみ居続けさせるのは容易ではない。  アイディーンがすばやく腕をふりおろすと同時に、光が無数のつぶてとなって魔族の身体をつらぬいた。  そのまま地面へくいこんで縛めと化した光の枷は、アーシャーの四肢を確実に縫いとめる。  身動きのとれない魔族の青年は、憤怒の表情をアイディーンへ向けていた。  ほんの一瞬、ほんのわずかの隙が勝敗をわける、そのことを数多くの戦闘を経験してきたマラティヤはよくわかっていた。  「さて、アーシャー(・・・・・)」  力をこめて彼は魔族の名を呼んだ。  縛められた細い身体が硬直する。  「おまえの同胞はどこにいる」  アイディーンの問いに、アーシャーは怒りをたたえたまま、しかしとぎれとぎれに答えた。  「エフェスは、ここにいない」  「どこにいるんだ」  「この矮小な国の都に、玩具をとりにいく、と」  「バハールへ? 玩具とはなんだ」  青年は答えなかったが、ごくわずかに左腕を見やった。  瞬間、アイディーンはすべてを理解する。  「カシウ……!」  しぼりだすように言って、思わず目を向けた先、首都の方角は暗く厚い雲に覆われていた。
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