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14 - 従者が短剣で樹肌に
従者が短剣で樹肌に切りこみを入れると、勢いよく水がふきだした。
少年はそれを両手で受けて飲みほす。
二度、三度とくりかえし喉の渇きが癒されたのを見てとると、従者も水をすくってうまそうに飲んだ。
「アドゥ殿下、足の具合はいかがですか」
皮袋にも水を詰めながら従者が尋ねると、少年――アドゥは、問題ない、と首を振った。
「ナザル、もう国境を越えたと思うか」
「おそらくは」
ナザルと呼ばれた従者は懐から手描きの地図と方位盤をとりだして、交互に見比べる。
これらは数日前まで旅路を共にしていた法術士から譲りうけたものだ。
アドゥとナザルは旅に最低限必要のものすら持ちだす余裕もなく、王宮を追われたのだった。
しかもアドゥは深い傷を負い、死の淵をさまようはめになった。
少年を襲ったのは自分を守るはずの近衛兵で、それを命じたのが血を分けた姉であるという事実は、まったく予測しなかったわけではないとはいえ、少なからぬ衝撃を彼に与えている。
幼いころからそれほど仲の良い姉弟ではなかったが、顔を合わせれば会話もしたし、折りにふれて贈り物をすることもあった。
しかし、いつからかとりまきの貴族たちが姉弟のあいだに入りこんで互いの姿を隠し、直接会って言葉を交わすのも容易ではなくなってしまった。
また母王の、二人の子供に対する扱いの違いが大きく影響したのは確かだ。
弟を見る姉の目に憎悪の色が徐々に濃くなり、王位をつかむ意志が明確になったとき、彼らの決別は避けられないものとなったのである。
アドゥ自身が熱望していたわけではなかったが、子供心になんとなく自分が母王の後を継ぐのだろうと思っていた。
周囲も期待したし、そういう教育をうけてきた。
しかし姉も帝王学を学び、彼女のとりまきは彼女こそが次代の王だと誉めそやす。
母の真意はどこにあったのだろうか。
王宮の奥深くで半死半生の床にある病人に、いまさら問うすべもない。
仮に姉を王位継承者に定めるつもりだったとしても、アドゥはすでに決意していることがある――自ら玉座につくという、それは野望だ。
もはやアドゥは姉と同じ条件で競い、王位を要求できる正統な権利をもつ立場ではなくなってしまった。
混乱に乗じてとはいえ、まがりなりに国を治めようとする政権を、彼はふたたび転覆させようとしているのだ。
姉への私怨がないといえば嘘になる。
甘言を弄して近づきアドゥを背後から操ろうとしながら、結果的に国を追われるまでの窮地に陥れた貴族たちへの恨みも。
しかしそれ以上に、母王が倒れてからの姉たちのやりかたに不味さを感じている。
彼らは自らの権威を確立するのに執心して、世の中でなにがおこっているのかわかっていない。
目の前の騒動に対処するだけで目一杯になってしまい、国のなかの、いや世界各地の異変の本質を見ていないのだ。
暗黒期の渦中にあることの意味、その重大さを姉は自覚するべきだ。
アドゥがその考えを自分の意思として持ち得たのは、シヴァス人の法術士との出会いによるところが大きい。
アイディーンと名乗った青年は、本名をあかすわけにもいかず使った偽りの名を、おそらくは疑っていただろう。
しかし、あからさまに不自然な態度で同行を申しでたアドゥとナザルに対して、不躾なふるまいをせず旅を共にすることを許してくれた。
後にまのあたりにした彼の魔属との戦闘から、容易に察せられる腕っぷしと法力の強さをみれば、自分たちなど警戒するにもあたらないと思われたのかもしれない。
ともかくアイディーンは道中の警護のみならず、食事や治療、寝床の確保、旅で最低限必要な水の採りかたや薬草の見分けかたまで教授し、あらゆる面倒をみてくれたのだった。
「彼らのことを気にされているのですか」
ナザルは考え深げな主人にあえて尋ねてみた。
シヴァスの法術士たち、もっと正確にいえばアイディーンに出会ってからというもの、アドゥは思索にふけって黙然とすごす時間が多くなった。
王宮をでる前にはなかったことだ。
首を振ってアドゥは答える。
「ぼくのいまの関心はデニズリのことだけだ。姉上の追跡の手も、ぼくを捕らえるまではゆるまないだろう」
「……殿下をどこへお連れするべきか、決めかねています。もはやグルタルたちは頼れません。奴らは殿下を利用することしか考えない下衆どもだ」
「初めから、奴らに庇護を求めるつもりなんてない。ナザル、ぼくはデルスへ行きたい」
思いがけない国の名に、男はどう反応したらいいかわからなかった。
デニズリの隣国であるデルスとは古くから交易があり、互いの王族には血縁関係もあるが、アドゥが個人的につきあいのある王族はいない。
庇護を求めても、確実に受け入れてもらえる保証はなかった。
「隣国カズビンはビジャールの手前、中立を守るだろう。だとしたら、追っ手を避けながら逃げるのは、デルスまでが限界だと思う。僕たちはほとんど身ひとつで宮をでてきたし、味方といえる者に連絡をとるすべもない。デルス王宮に直接事情を話して保護してもらうしかない」
「メユヴェ王女がすでにデルス王宮へ手をまわしているかもしれません」
「それは賭けだ。でもぼくは行く価値はあると思う」
アイディーンが道を示したからだとはアドゥは言わなかったが、彼の言葉に後押しされているのは確かだった。
「では、まずおれがデルスへ行って話を通します。最悪おれが捕まっても殿下は逃げのびられる」
慎重な言動のナザルに、主人は同意しなかった。
「おまえだけでは向こうの信用を得られないだろう。ぼく自身が行くことに意味があるんだ。それにおまえが捕らえられたら、ぼくひとりで逃げ続けるのはとうてい無理だ」
アドゥの決意はかたい。
ナザルは苦虫を噛みつぶした顔をしたが、主人の言が反論の余地もないものだったので、結局は同意するしかなかった。
二人は短い休息をとると、傷んだ足をひきずりながら歩きはじめた。
――方針を決めてから三日、彼らは黙々と歩き続け、一度も追っ手と遭遇することなくデルスの首都バルトゥーンへ入った。
街へ入らず、食料は行商人から得て森のそばを歩くという警戒はしていたが、これはまったくの幸運といわなければならない。
一度だけデニズリ兵の小隊を見かけたものの、森の奥へ入って身をひそめているとすぐに去っていったので、危険というほどではなかった。
アイディーンに出会ってからというもの、幸運の神ウシューの加護でも得たかのように逃亡の旅が楽になり、王宮をでたばかりのころの苦労はなんだったのかと思わずにはいられない。
ともかく彼らは城下街の安宿をみつけて久しぶりに身体を洗うと、できるだけ見苦しくないよう身なりを整えた。
デニズリ王家の証である紋章が彫られた指輪を持ってはいたが、あまりみすぼらしい恰好では目通りを許されないかもしれない。
すぐにでも王宮へ向かおうというアドゥにナザルは言った。
「デルスの宰相はアナドラ・ゴウズ様という方で、ジェイル伯の実の姉にあたられます。ジェイル様も国を追われてから姉君を頼られているはずなので、そちらから話を通したほうがよいかもしれません」
「ジェイルだって」
アドゥは思いもかけない名前に声をあげた。
ジェイル伯爵はアドゥ王子派の一派だ。
魔属を傀儡に使って政権を奪取しようと無謀な計画をたてていたグルタル子爵やデヴェリ伯爵たちとは距離を置き、もっと現実的に王子を擁立するための可能性をさぐって水面下で活動していた貴族たちの中心人物である。
アドゥの周りは常にデヴェリたちのとりまきにがっちりとかためられていたため、ジェイル一派とは接する機会がほとんどなかったが、彼らと話し合ってみたいとは以前から思っていた。
「なぜナザルがジェイルのことを知ってるんだ」
「ゴウズ家とジェイル家には血縁関係があり、ジェイル様は生まれてすぐに跡継ぎのなかったジェイル家へ養子に入られました。おれはゴウズの傍流の出で、以前はジェイル様に仕えていたのです」
「おまえ、ゴウズ家の者だったのか」
「傍系もいいところで、アナドラ様にお目にかかったこともありませんが……。グルタルたちは昔から手段をえらばないやりかたでアドゥ殿下を囲いこみ政権を狙っていたので、ジェイル様は危機を見越して、おれを殿下の従者としてデニズリ王宮へ召し上げてくださいました」
「じゃあ、おまえは……十年以上もジェイルの間者として、ぼくを監視していたというわけか」
失望をあらわにした少年に、ナザルは弾かれたように「いいえ!」と言い募った。
「ジェイル様は、第一に殿下の御身をお守りするよう命じられました。たとえゴウズやジェイルと敵対する状況になったとしても、殿下に忠誠を尽くせと。もちろんそのつもりで殿下に仕えてきましたが、いまはおれ自身の意志で殿下にお仕えし、盾となる覚悟があります。どうか、どうかお疑いにならないでください」
悲痛ですらある男の顔をアドゥはじっと見る。
物心ついたころにはナザルはもうそばに仕えていた。
親兄弟よりはるかに多くの時間を共有し、苦楽を分かち合ってきたのだ。
乳母や侍従がいたとはいえ、十代なかばの少年だったナザルが従者として幼児に仕えるのは、生半可な苦労ではなかっただろう。
従者として、友として、兄として、ときには師として、身を挺してアドゥの健全な精神と身体を守ってくれたのは事実だった。
少年は立ちあがってナザルに手をまわし抱き寄せると、「信じる」とはっきり言った。
「殿下……」
ナザルは言葉を詰まらせ、自分からも少年をきつく抱きしめて、心のなかであらためて忠誠を誓ったのだった。
しばらくしてお互いたかぶっていた気がおちつくと、あらためてナザルの提案通りまずジェイルへ会うことに決める。
ジェイル伯爵は姉のもとにかくまわれているはずなので、二人は王宮周辺の貴族の居住区へ向かい、荘厳な屋敷をかまえるゴウズ家の門をたたいて面会を求めた。
ナザルが先だって事情を話すと、意外にもすんなり応接間へ通される。
前もって約束していたわけでもなく、こういった場合には長く待たされるものだが、侍従が客人へ茶と煙管を供する前に、ジェイル伯爵は足どりも荒く飛びこんできた。
「アドゥ殿下!」
礼を欠いた慌てぶりに驚きながらも拝礼をしたナザルをよそに、ジェイルはアドゥを不敬なほどじっと見て、それから腰をおとし深く拝礼する。
「よくぞご無事でいらっしゃいました」
「おまえも無事でなによりだ」
アドゥが鷹揚に答えると、ジェイルは感極まった様子をみせ、目を真っ赤に潤ませた。
なんとか冷静をとりもどして立ちあがり、王子の従者をねぎらう。
「ナザル、この混乱のなかでよく殿下をお守りしてここまでお連れしてくれた」
「殿下が強運の星をお持ちだからこそです」
従者は本心からそう答えた。
何度となく危ない目にあいながら、敵の手に落ちることなくここまでたどりついた。
最大の危機は王宮を脱出する際に近衛兵に負わされた傷がもとで死に瀕したときだが、偶然出会ったシヴァスの法術士に救われ、後遺症もなく全快している。
たしかにアドゥは幸運の星回りの下にいるといっていい。
ナザルは二人をうながして席につかせ、自分も向かいへ腰をおろすと、互いの情報をもちよって現状を把握した。
グルタル子爵が魔属の狂信者集団の後ろ盾となっている事実が明るみにでたとき、メユヴェ王女派の過激な追求から身の危険を感じたジェイルは、いち早く仲間たちにデニズリを出奔するよう警告していた。
しかし王子であるアドゥが安易に国を出れば、政権争いに敗れたとみなされ、暗黒期の混乱のさなか国民を見捨てたという不名誉までかぶる恐れがある。
ジェイルは幾人かの仲間とデニズリ国内に残り、なんとかアドゥの安全を確保できないか画策していたが、メユヴェ王女派の動きが予想外に強引で、あっという間に王宮を占拠されてしまった。
あまりに目まぐるしく状況が変わったため、ジェイルたちも自らの身の確保に手いっぱいで、アドゥをかくまう時間も国外へ連れだす手段も失われたのだった。
救いは、こんな事態になるのを予想してナザルに前もって指示を与えていたことである。
もともとアドゥの従者として王宮へ送りこんだ当初から、グルタル子爵やデヴェリ伯爵だけでなく、周囲に関係を知られないよう細心の注意を払ってきた。
王宮ではいつ誰が味方になり、敵になるのかわからない。
幸い彼らのつながりは政敵に漏れず、今回の騒動のなかでも、なんとか王子を無事にジェイルのもとまで守り導いてくれた。
「なぜ、初めからここへ来ることを勧めなかったんだ。おまえはどこにも当てがないって態度だったじゃないか」
ナザルへ向けたアドゥの当然の疑問に従者の青年は、それは、と言いよどんでジェイルを見た。
伯爵はうなずいて事情を説明する。
「デルスでの地盤固めを終えてから殿下をお迎えするつもりだったからです。わたしがゴウズ宰相の庇護をうけた時点では、デルス王宮へメユヴェ王女方の介入があったのか、アドゥ殿下への王宮の支持がどの程度のものか定かではありませんでした。ゴウズ宰相を説得し殿下の後ろ盾となる確約を得てから、ナザルへ連絡する手はずだったのです」
「おまえたちは頻繁に連絡のやりとりをしていたわけじゃないのか」
アドゥが意外そうな反応をみせると、ナザルは首を振った。
「通信用の共鳴石はもっていましたが、この情報は敵に漏れる恐れがあります。それにおれは法力が強くないので、そう何度も共鳴石をつかえません。これをつかってジェイル様から連絡をうけるのは、デルス国内での根回しがうまくいき殿下をお迎えする体制が整ったときのみとするよう、ジェイル様と申し合わせていました」
「それが、まだ連絡もしていないのに突然ナザルが到着したというので驚きました。ほとんど準備は整っているものの、まだじゅうぶんな数の兵が集まっていないので」
ジェイル伯爵は歯切れ悪く言った。
現れたときの慌てっぷりはそれが理由だったらしい。
アドゥは自分の言動がナザルたちの計画を変えさせたのに気づく。
「森にいたとき、ぼくがデルスへ行きたいと言いだしたから、予定より早くここへ来なければならなくなったんだな」
「殿下がこれまで話題にもなさらなかったデルスの名をおっしゃったので、密かになにか情報を得ておられるのかと思っていました」
「いや……」
従者の言にアドゥは言葉をにごした。
ここにいたっても、あのシヴァスの法術士とのやりとりをあかす気にはなれない。
本当になぜ、アイディーンはデルスを示唆したのだろう。
彼こそが、アドゥたちの正体と無謀な旅の事情を知っていたように思えてならない。
アドゥが思索にふけっていると、ジェイルは立ちあがって鼓舞するように大きな声をだした。
「さあ、これからが本番です。ゴウズ宰相を通じてデルス王宮の援護の約束をとりつけられ、兵も近日中にそろいます。王女の勢力がまとまらないうちに、迅速に王宮を奪還せねばなりません。殿下には大将として上に立っていただきますぞ」
急に現実が迫ってきたように感じて、アドゥは全身に緊張をはしらせる。
もはや、敵を倒さねば自分が破滅するしかない崖っぷちにいるのだ。
血を分けた姉と敵対し、自分の命をかけなければならない王子は、支援する多くの者たちの命運をも背負った十二歳の少年だった。
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