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04 - 目を開くと薄暗さが
目を開くと、薄暗さがひろがっている。
反射的に顔をそむけたすぐそばに、人の気配があった。
驚いて身体をおこすと、寝台に腰をおろしたアイディーンが、彼こそが驚いた顔をしていた。
「ずいぶん勢いのいい目覚めかただな、カシウ」
からかうような笑みを向けられたスィナンの青年は、いったいなぜこんな状況になっているのか皆目わからず、必死に記憶をたぐり寄せようとする。
主をさしおいて自分ひとりだけ寝呆けるなど、なんという失態だろうか。
シヴァスでの一件はともかく、主より早く寝つくことも遅く起床することもこれまでなかったカシュカイである。
そもそもアイディーンとは別行動をとっていたはずだと気づいて、はっと顔をあげた。
「デルスには魔族が」
カシュカイの性急な言葉を制して、わかっているというようにアイディーンはうなずいた。
「ファズーラに片腕が封印されていたんだろう。俺が向かったベラベルにはその本体が封じられていたが、そいつを所有物のようにあつかうもう一人の魔族が腕をもってベラベルに現れた。結局、封印されていた魔族を奪われ、バズルリングの連中は殺されたんだ。……腕が魔族の手へ渡った経緯を憶えているか」
「はい。腕を安置していた洞窟の封印陣を解術したとたん、突然現れた魔族に強奪されました。とり戻そうとしましたが、気絶させられたようです。申し訳ありません」
淡々と事実を羅列したカシュカイだが、謝罪はひどく重く響いた。
ベラベルに封じられていた魔族を持ち去られる原因になったと思うと、役にたたないどころではない失態である。
あの魔族の男はなんとしてもファズーラの地でくいとめなければならなかったのに、容易に隙をみせた自分が心底腹だたしかった。
「魔族に腕を奪われて戦闘になった。そのさなかに意識を失ったんだな」
「はい……」
しくじったという事実に念押しをされ、カシュカイは絶望的な心地だったが、その答えに対してはアイディーンはいたって軽く言った。
「俺がファズーラの洞窟の前で倒れているおまえをみつけたんだ。どこにも怪我がなかったのは幸いだったな。まだすべてが終わったわけじゃないし、おまえも責任を感じる必要はない。それより、これからするべきことを考えよう」
アイディーンはデニズリでおきたことや、カシュカイが眠っていたあいだにビジャールへ行った経緯などを説明した。
カシュカイに対して、気がかりなことがないわけではなかった。
ベラベルで魔族の男と対峙したときの状況である。
いかにも脆弱にみえるスィナンの青年だが、こと戦いに関してアイディーンは彼を過小評価していない。
体力面での不安はあるものの、体術そのものは非常に鋭敏で優れており、補って余りある法術の技と威力をもっているし、稀な戦闘的勘も備わっている。
長くひとりで魔種狩りを続けてきたという豊富な経験もあった。
それにも関わらず、ファズーラで殺されてもおかしくない危機的状況に陥ったのはなぜなのだろうか。
ただでさえ魔族はスィナンの一族を嫌悪している。
手の甲の紋章に興を誘われた可能性は容易に想像できるが、実際に腕を切りとっていた以上、カシュカイ自身にはもう用はなかったはずだ。
それをわざわざ生かして連れまわしていた理由も、アイディーンにとって不可解だった。
しかし疑問をもちながらカシュカイに尋ねないのは、事実を彼に話さなかったからだ。
腕を切断され魔族に玩具のようにあつかわれたことを知れば、スィナンの青年は自尊心を傷つけられた屈辱と失態を犯した自己嫌悪とで等しく自らを責めるだろう。
幸い、身体にはすでにわずかな痕跡も残っていない。
彼がなにも気づいていないのなら、そのまま知らずにいるほうがいいとアイディーンは思っていた。
いや、カシュカイにより知られたくないと思ったのは、あの悪夢のほうだったかもしれない。
まったく故意に暴いたわけではなかったが、彼の生々しい過去の惨劇を追体験した後味の悪さはひどいものだった。
カシュカイを感傷的な同情や憐れみの目で見たいとは思わないのに、理性を保つのが難しい。
否応なく抱きよせて、どこか安らかな場所に閉じこめておきたいという激しさを覚えることがあるのだった。
本気でカシュカイを日常から隔離し、自分だけのものにしたいなどと思ったわけではない。
過去のすべてが彼を形づくっていて、そのカシュカイという存在に惹かれているのだというのもじゅうぶん自覚している。
アイディーンは視線をおとしたままの青年の肩をひきよせて、髪にキスをうずめた。
本当に無事でよかった、というくぐもったつぶやきが聞こえたのかどうか、カシュカイは身体をこわばらせてじっとしていた。
触れられる体温に鼓動が速まるのを感じながら、ふと主が漏らした吐息に疲労が濃くにじんでいるのが気になった。
気を失っていたあいだに、なにか問題がおきたのだろうか。
十日ばかりも床についていたと聞かされて、カシュカイは血の気がひく思いがする。
もしそのあいだに主の身になにかあったらと想像するのは恐怖だった。
現にアイディーンは疲れているように思えたし、彼の気流もいつもの精彩を欠いていた。
とっさに治癒法術の印を組んでアイディーンの胸へ手のひらをかざすと、すぐに気づいた彼は苦笑してもう一度キスをする。
それから向けられた手をとっておろさせると、おもむろに懐から小さな箱をとりだして、その手のなかへおさめた。
見おろすカシュカイに、アイディーンがうながす。
「あけてみな」
主の言葉に従ってふたをとると、中には絹布に包まれた石がおさめられていた。
琥珀とも金ともつかない菱形の貴石である。
繊細な銀の金具がついており、耳飾とわかった。
しかし、一対ではなくひとつしかない。
理由はアイディーンの説明ですぐにわかった。
この貴石の原石は、ゴルシュの地で少女を助けた礼として譲りうけたシャーヒンという石だ。
外観はごつごつとしてなんの変哲もない鉱石にみえるが、内側は薄紫の結晶で旅人を災厄から守ってくれると信じられ、またその美しさから宝飾品として加工されてきた。
そんな言い伝えは迷信でしかないが、稀に真に力をもつ石が混じっていることがある。
どんな条件によるものか、シャーヒンの結晶の中心にさらに金蜜色の結晶が形成され、それこそが災事を避け疫厄を遠ざける術的な力に満ちた貴石なのだった。
〈幻影の守護石〉と呼ばれるそれは、人の手が加えられるまでもなく幾分か縦に長い立体的な菱の形をしており、空気に触れるとすぐに黒くただれ価値のないくず石になってしまう。
そのため、周囲をかためる薄紫の結晶から削りだすには熟練の職人の腕が必要なのだ。
もともとアイディーンは知っていて宝飾店にもちこんだわけではなく、シャーヒンをくれたゴルシュの夫人も知らなかっただろう。
なにせカルース・ムラートひとつで、決して安価ではないシャーヒンをトロッコに山積みにしても足りない金銭的価値がある。
自分とカシュカイの旅守りとして身につけられるものを作ってもらうための依頼だったが、店から血相を変えた使いが事情を知らせにきたので、アイディーンは耳飾にするよう頼んだのだった。
ビジャールでもシヴァスでも、宝飾品は男女の区別なく日常的に身につけられている。
アイディーンも兄クールドから贈られた青金石の耳飾を両耳につけていた。
「右と左、どっちがいい」
主の問いに、カシュカイは答えられない。
その理由をすぐに察して、アイディーンは重ねて言った。
「これをおまえに贈りたいんだ、受けとってくれないか」
しかしカシュカイはなおも無言で、もう一度小箱に目をやった。
自分に物を与えると主は言う。
いや、受けとってくれないかと聞いたのだった。
所有物、あるいは私物などというものをカシュカイは一度としてもったことがない。
衣服も武器も、命じられた任務――マラティヤの務めに必要だからこそ最低限は用意されるが、下げ渡されたわけではなくあくまで貸与にすぎない。
むしろこの身体そのものが自身のものではなかった。
自分の存在さえ、命令されれば右から左へ移されるような者に、紙片ひとつすら所有できる道理がない。
ただうなずけばよかったのか、契約の僕になにもわけ与える必要はないと伝えるべきだったのか。
いくら考えたところで、カシュカイに答はみつからなかった。
アイディーンは逡巡するカシュカイをまっすぐ見つめた。
「気にいらないのでなければ、おまえにもっていてほしい」
そう言われればカシュカイの答はひとつしかないことをわかっていてうながした言葉だったが、カシュカイ自身どこかほっとした様子でうなずいたのだった。
「大切にします。なによりも」
大仰なスィナンの青年に、アイディーンは小さく笑いをこぼした。
「つけてやるよ。右耳と左耳、どっちがいい」
ようやく最初の質問に戻ったアイディーンへ、どちらでも、という予想通りの返答をしたカシュカイは、不意に左耳を指先でなぞられて反射的にまぶたを閉じた。
「少しだけ我慢しろ」
耳もとに囁かれた言葉に目を開けようとしたとき、耳たぶに弾くような衝撃と熱さを感じて一瞬息をとめる。
そのあとアイディーンの術文のつぶやきが聞こえて、じんと響く痛みも熱もすぐに消えた。
残ったのは、わずかな重みだけだ。
顔をあげると、アイディーンが満足そうに微笑んでいたので、わけもなく安堵した。
そっと左耳に手をやると、冷たい感触の石が揺れている。
銀の金具が薄い肉を貫いているのを指で触れて、不思議な心地がした。
なんの傷跡も残さないはずの自分の身体に、閉じることのない傷がある。
ほかでもないアイディーンが消えないしるしを刻みつけたと思うと、じわりと肌があわだつような感覚をおぼえてカシュカイは身じろいだ。
それをじっと見ていたアイディーンは耳飾に触れる白い手に口づけると、唇をすべらせてやわらかく耳を食む。
自分でも意識しないうちにたやすく息が漏れて、カシュカイはとっさに手の甲を口におしあてた。
しかし、金具が貫く箇所を舌先でなぞられる感触は妙に生々しく、首すじがすくみそうになる。
声をだすなと主に言われたことはなかったが、過去の体験からカシュカイにはどうしても醜悪な音としか思えず、反射的にこらえて唇を噛んだ。
アイディーンは頬にも口づけてから、その唇をなめる。
「切れるぞ」
実際に何度かそんなことがあったのを憂慮して、アイディーンは力を抜かせると、あらためて深く口づけた。
こうやって舌を絡めあわせ理性を乱れさせるようなキスの意味をカシュカイは知らない。
こんなことはアイディーンしかしないからだ。
初めは情事の合図なのかと思ったが、そうではなかった。
アイディーンは日常的に軽くキスをするし触れもする。
殴るためではなく閨の行為でもない、カシュカイにとっては不可解な主の行動に対して、どうふるまうのが正しいのかわからずいつも困惑してしまう。
例えばいまのように。
濃厚に口づけておきながら、アイディーンはそれ以上のことをする気はないらしく、衣にも手をかけなかった。
繊細に変化する色を楽しむようにゆっくり髪を梳いたり瞳の虹彩をのぞきこんだり、そんな戯れをしばらくしていて、ようやく手を離す。
これは熱を生む手だ、とカシュカイは思った。
触れられたところからじわじわと温度をあげて過敏になっていく。
吐く息にも熱を含んでいると感じながらカシュカイがようやく顔をあげると、アイディーンは鷹揚に笑んでいた。
何事もなかったかのような面持ちに、カシュカイはいたたまれなくなってしまった。
主にはこういうところがある。
どれだけ閨事の行為に没頭していても感情を激したようにみえても、不思議と余裕があり、恥も外聞もなく醜態をさらすといったありさまにはならないのだった。
アイディーンはそのままの穏やかさで、カシュカイの耳飾を指先で幾度も揺らした――その存在を確かめるように。
琥珀に輝く奇跡の守護石に主がどれだけの祈りと願いをこめたか、スィナンの青年はまだ知らなかった。
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