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06 - 魔族に日ごとの睡眠は
魔族に日ごとの睡眠は必要ではなく、住むための家も食べるための食器も同じだ。
数日に一度の食事とわずかな休息が生きる糧のほぼすべてで、他者を虐げるのも美しいものを蒐集するのも暇を追いやる手段のひとつでしかない。
ソファに沈みこむようにしてくつろぐ男――エフェスもまた、永い生に飽いてつまらない暇つぶしで自らを慰めるだけの時を過ごしてきた。
しかし、彼の手慰みは常に人間に苦痛を与えることばかりで、人間にしてみれば同情の余地などない。
エフェスの足もとには、ひとりの青年が転がっていた。
彼がこのところ執心しているアーシャーである。
アーシャーはまぎれもなく上位魔属である魔族だが、エフェスにとっては単なる玩具だ。
同じ魔族でありながら支配者となるか否かの差は、中央大陸エシュメに生まれたかどうかという一点に集約される。
アーシャーはオルルッサ大陸のはるか南方で生を受けたが、エフェスはエシュメの暗い闇より出現した。
故郷でも古い世代に属する彼でさえ、約百年という周期でめぐってくる暗黒期がもたらす本能的高揚には抗えない。
体内の精気が活性化し、動物が発情期を迎えたときのように気がたかぶる。
なにより暗黒期が人間にとって不都合なのは、魔属の食欲が増すという点においてだろう。
それはつまり人間の犠牲が増えることに他ならなかった。
魔獣は人をより好むとはいえ、あらゆる生物を栄養として貪欲に摂取するが、魔族の糧は一様に人間であり、それ以外は受けつけない。
極めつけの偏食といってもいいその性質は人間にとって許容しがたいが、魔属自身にとっても不幸なのかもしれなかった。
エフェスは足先でアーシャーのあごをあげ、こちらを向かせた。
脱力したまま逆らいもしない青年は、気を失っているわけでもなく、焦点の合わない目をかろうじてひらいている。
「おまえはいつになったら正気に戻るのだろうね。それともこうやって人形のまま、命数が尽きてしまうのかな。せっかく新しい腕をやったというのに」
身体を起こしてつかんだ青年の手の甲には、風と光の神の紋章が絡みあっている。
接合した腕の継ぎ目は綺麗になじんで、傷口もわからなくなっていた。
もしかすると、神の聖印に対して拒否反応を示しているのかもしれないが、エフェスは再び腕を切り離そうとはしなかった。
適応せず死んでしまうのなら、それが寿命だったのだ。
そうなったら、次はこの腕の持ち主だったあの風変わりな青年を手もとにおいて、もっと詳しく調べてみるのも面白いかもしれないと思いをめぐらせる。
しかし、彼のそばには得体の知れない人間がいたのを思いだして、エフェスは珍しくも顔をしかめた。
幾度かの暗黒期を経験していながら、マラティヤの人間を目にしたのは初めてだった。
魔属とはまったくちがう生命の輝きとでもいうべきものが、あの人間からはあふれていた。
神魔と比べると、人はずいぶん若い種なのだという。
それを納得させる瑞々しい奔流がマラティヤの青年のなかに満ちていて、エフェスは気味が悪いと警戒しながら、ひきずられるように惹かれるのをとめられなかった。
あのマラティヤはおそらく誰をも惹きつけるだろう。
しかし、それが気にくわなかった。
永く生きると心の動きは緩慢になっていく。
久しく眠っていた感情がいまさらわずかでも目を覚ますなどエフェスにとって面倒で、煩わしく不快なのだ。
ではどうすべきか、とは考えるまでもない。
古来、暗黒期が魔属にとって必要な通過儀礼であり、そこへ神が介入してくるのも世界の均等を保つためにはやむをえないことだと、人以外の知能ある者は皆知っている。
しかしエフェスにとって、その自然界の法則がマラティヤの人間を消してしまおうという思いつきより優先されることはなかった。
魔族とは、もとより自らの興味の他に従うなどほとんどないが、なによりもエフェスは生き過ぎており、世界の均衡を保つという本能すら希薄になりつつあった。
「そのためには、やはりおまえに働いてもらわないとね」
男は悪戯を考える子供のような笑みをその凄絶な美貌にうかべて、足もとの青年を見やった。
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