プロローグ『憑路ノ市』

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プロローグ『憑路ノ市』

 女は名を小川結依という。齢は二十一、仕事は事務員。平凡な名で平凡な人生を歩んできた彼女に、人好きのする笑みを浮かべた若白髪が手を差し伸べた。 「ここは幻世の台所、誰が呼んだか『憑路ノ市(ツキジノイチ)』。ゆるりと愉しまれるがよい」  朱い提灯、金の月。空に狐火、地には蛇。開かれた大門には『憑路』の文字。  そこから延びる通りには屋台と露店が立ち並び、灯籠の光に霞んで消えるまでまっすぐ続く。在りし日の京の都を思わす町並みに、しかし行き交うは人の身ならぬ妖怪変化、魑魅魍魎ばかり。  今宵の結依が立つ其処は、この世ならざる市場の入口であった。 「私、築地にいたはずじゃ……」 「そうとも。そしてここは築地の裏側たる『憑路』の地。強運の持ち主が時たま迷い込むのでな、こうしてまあ、暇を持て余した(じじい)が道案内を務めているというわけだ」 「(じじい)?」 「人は見かけによらずと先人も言ったろう。気兼ねなく『憑爺(ツキジイ)』と呼んでくれたまえ」  古風な藍染の和服と髪の白さを差し引いても二十代としか見えない男が、戸惑う結依の手を引く。 「さあさ、せっかくの客人だ。歓迎がてらしばし見物といこうじゃないか。なに、怪異ひしめく幻世といえど市は市。取って食われやしまいよ。売って買われることは、分からんがね」 「でも私、帰らないと」 「急ぎの用でもおありかな」  実際のところ結依に急ぐほどの理由はない。寿司が食べたい、ならば築地だと日曜を過ごしにきただけであった。言いよどむ結依に男はカラカラと笑いかける。 「こう急かされても心細かろうな。だがだがまあまあ、後ろを見てみたまえ」  言われるがまま首を背後に向けて、結依の身体がビクリと固まる。 「道が、ない」  振り返ればあるはずの、築地でふらりと踏み込んだ細い路地。辿ってきたその道は結依の背後でぷつりと途切れ、夜の黒だけが立ちふさがっていた。迫る宵闇に気圧され結依は一歩後ずさる。 「行きはよいよい、帰りはこわい。出るには『しきたり』があるのがこの市でな。こればかりはまあ、ひとまず門をくぐってもらわねば仕様がない」 「……分かりました」 「肝が据わっているのはよいことだ。改めてようこそお嬢さん、食えるものなら遍く売り買いできる虚ろの市場、怪異の故郷『憑路ノ市』へ」
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