欲しい。

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 言った途端、踵を返そうとしてた右の掌が握られて、強く引かれた。 「待ってください。何、過去形にしてるんですか」  俺は涙の名残に、ヒクッと一度、しゃくり上げて育田を見詰める。 「育田?」 「僕は、ずっと好きでした。今も、好きです。愛してます。でも……貴方の人生を、僕の色に染めてしまうのが、貴方の為にはならないと思ってました」  そして、文字通り夢にまで見た柔らかい唇が触れた。本当に、触れるだけ。だけど、長く、長く、触れていた。夢の中では俺は瞼を閉じて口付けに酔うのだけれど、いざ現実になってみると、驚きの方が勝ってそんな事も忘れていた。眇められた育田の鳶色と、ひどく近くで目が合っている事にようやく気付いて、パッと身を引く。 「……どうしました。怖じ気づきましたか」  唇を手の甲で覆って目を泳がせる俺に、育田が静かに訊く。ああ。育田は、俺のこの中途半端な覚悟を試してたのか。そう気付いて、こくりと一度喉仏を上下させると、今度は俺の方からゆっくりと育田に近付いた。背伸びして、そっと唇の端に触れる。瞳を閉じて。  すぐに離れて目を合わせながら、愛おしい頬に、短い顎髭に、長めの後ろ髪に、薄い唇に、指を這わせた。 「……好きだった、ですか?」 「いいや。好きだ。大好き、だ」  そう吐息で秘めると、育田は俺を初めてきつく抱き締めて、欲しかったものを与えてくれた。息が上がるまで愛おしみ合って、息継ぎをするのに離れたけれど、俺は追いかけてもっともっとと何度も触れる。 「焦らないで、夏実さん。貴方の部屋で、たっぷり……ね」  欲しがりの俺の肩を優しく押し離し、育田が耳元で囁いた。 「貴方が欲しいです……夏実さん」  育田。俺、も。言葉の代わりに、もう一度唇を触れさせた。 End.
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