第1章

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「お前みたいに強くないんだよ。俺だってお前の話を聞いてむかっ腹だが、しかしな。それでもやくざが相手だと尻込みしちまう。というか、手出しもできない有り様だ」 『ま、それは犬だって同じだろうよ』 「お前はただの犬じゃない。人間すら圧倒する、強者だ」そして、とバーのマスターは続ける。彼は三杯目のミルクをわんこ探偵に差し出す。「強者には責任がある。それは、信念に基づいた戦いだ。お前に、それができるのか?」 『残念ながら、信念なんて大した風呂敷じゃない』だがな、とわんこ探偵はスピーカーから声を発する。『誰かが泣いてるのを、無視できない』  そういう体質なんだ、とわんこ探偵は言った。 「それじゃ、しょうがねーな」 『それじゃ、しょうがねーだろ』  こういう生き方しかできない。  わんこ探偵は三杯目のミルクを飲み干すと、店を出た。 「一応言うが、死ぬんじゃねーぞ」 『命を賭けるにはつまらない相手だろ』  今日の首巻きは、真っ赤な首巻きだった。  007  犯人の名は、中村裕史(なかむらひろし)。  彼は特別情けない人間でも、極悪でもない。親父はヤクザだが立派に育ち、周りからの評判もよかった優等生だ。しかし、一つの間違いで人生が狂う。  まさか、自分が交通事故を起こすとは思わなかった。  まだ年端もいかぬ子供をひくとは、考えもしなかった。  だからか、その罪悪感に胸が苦しみ、今すぐにでも自殺したい衝動にかられる。だが、自殺はしない。そこまでの覚悟はない。苦しみはある。ただ、それだけだ。今このとき、彼はごく普通の若者というか、一人の人間だった。  大きな罪と向き合い、それをどうするか懸命に悩んでいた。  でも、捕まりたくはない。  それでも得た結論は、これだった。  彼自身、愚かで、最低で、下劣で、最悪な結論だというのは分かる。だが、その結果になったとしても、刑務所に入り、今後の人生がめちゃくちゃになるのは嫌だった。  別に彼だけを責めるわけにはいかない。大概の人間は同じ結論になるだろう。それだけのことを成せる権力があるならば。  だがそれは、どんな言い訳をしてもやはり最低の選択だ。  それにより、誰が泣くかも知らないで。 「……なんだ?」  彼は郊外の別荘に暮らしていた。そこの一室で、何十畳もあるとこで、頭をかかえていたが、一階から自分の監視役である男たちの声がし、動揺した。 「一体、何が」
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