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「そのときのお鍋がまあ美味しくて。たぶん、それで主人は鶏を描いたの。絵を見るとね、そのときのお鍋を思い出すんです。楽しかったなあって」
弾んでいた絹子の声は、終わるころには少し湿り気を帯びていた。じっと壊れた湯呑に視線を注いでいる。
「二週間前にね、うっかり手が当たって横に倒れてしまって。そのときに壊れた音がして、棒立ちになってたら、そのまま転がって台所の床に落ちちゃったのよ。情けないわよね、反射神経が鈍くなっちゃって」
大事なものが壊れちゃったら、あたしだって身がすくむと生徒が言った。反射神経は関係ないですよと別の生徒がいう。彼女たちと絹子は、年齢差を越えて、すっかり打ち解けているように見えた。
理子はそっと立ち上がると、会話を続ける彼女たちから離れ、窓際に近づいた。
この雑居ビルにはエレベーターがなく、冷暖房の効きも悪いのだが、なぜか窓だけは大きくて、三階からの眺めは良かった。
細い道路を挟んだ向こう側では、穏やかな日差しに照らされた川がゆったりと流れている。上流には大きな橋が架かっていて、幹線道路につながっていた。車の流れはほとんどない。目を下に転じると橋脚のあたりで子どもと犬が遊んでいた。子どもの手からフリスビーが飛ぶ。青いフリスビーを目指して、真っすぐに犬が駆けてゆく。
窓に映り込んでいる自分の顔がひどく醒めているのを感じた。
しばらく窓辺に立ったまま、ガラスに映る室内を見ていた。絹子達はみな色が薄く、幽霊のようだ。
幽霊たちを眺めたまま、どうして絹子はあんなことを言ったのだろうと考えていると、一人が立ち上がった。さくらだ。理子のそばにやってくる。
「理子さん、お手洗いはどちらかしら」
「はい」慌てて笑顔を作る。「ご案内しますね」
廊下に出て共用トイレに向かう。すると廊下の中ほどで、後ろから急にさくらが両手で理子の手首を取った。強い力だった。足を止めて目を合わせると、さくらは言った。
「絹子さんはね、嘘をついてるの」
手首を握ったまま、わななくような声で続ける。
「あたしにはわかるの。あの湯呑は絹子さんが割ったんじゃないの」
「では誰が」
「幽霊よ」
さくらの目には確信に満ちた光があった。
「あれはね、理子さん、幽霊の仕業なのよ」
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