一、七海カナタ

4/17
35人が本棚に入れています
本棚に追加
/34ページ
 それどころか――彼女はつい鼻先の距離まで近づき――俺の手に何かを握らせた。それがナイフだと気付いた時には――。 「私を刺しなさい」  ――添えられた手に導かれ、鋭い刃がズブズブと柔らかな肉に沈んでいた。まるで一輪の華のように噴き出した血が、彼女の胸を赤く染めた。  刺した、刺した、刺した!  家に帰って直ぐ、俺はトイレにこもって吐いた。二度目の嘔吐で胃の中は全部吐き出され、後は胃液しか出てこない。それでも、トイレを出る気にはなれなかった。 「アキラ、あんたさっきからトイレいるけど大丈夫?」  大学に通っている姉が帰ってきたらしい。心配そうな声音に、一瞬だけ悪夢が掻き消される。姉に相談するべきか。そうした選択肢も一瞬、頭を過ったが、仮に信じてくれれば、イコール巻き込むことになる。俺は開けた口を一旦閉じて、違う言葉を探した。 「昨日食べた何かが当たったのかな? トイレ占領しててごめん」 「別にいいけどさ、あとで食器洗っておいてよ」  急に優しくなったと思ったら、食器洗わせる為かよ。それでも、姉の声が聞けたのは良かった。失笑と共に、少しだけ身体の冷たさが和らいだ。  それから何分経っただろうか。トイレから出た後は、洗面所で冷たい水を出して何度も顔を洗った。鏡に映る顔は酷く青ざめ、まるで血が通っていないように見えた。     
/34ページ

最初のコメントを投稿しよう!