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見上げると、彼は小さく笑みを浮かべていた。
「名前、呼び捨てでもいいかな」
「…え?」
「俺のことは秋でいいから。だから、清香って、呼んでもいいか?」
なんとも言えない気持ちになる。じわりと胸が熱くなった。
私は彼を、不思議な人だと思った。
「ーー…うん、いいよ。秋くん」
僅かにうつむきながら私は答えた。なんだかとても恥ずかしい…。
その時、急に彼が立ち止まった。
それに気づいた私は遅れて足を止め、振り返る。
彼の横顔は何かを見つめていた。その視線の先を私も見る。
私服姿の男女が校庭の隅を歩いていた。先生かと思ったけど少し違う気がした。この学校の卒業生だろうか。その男女は、なぜか校舎裏へと消えて行く。
「…秋君、どうしたの?」
「……」
暗い顔をした彼はずっと、2人が消えた方角を見つめていた。
「…清香、ごめん。ちょっと、用事ができた」
やがて小さな声で、彼はそう言った。
「え?わ、わかった。じゃあ私は…」
瞬間、真摯な表情になった彼が私のことを見た。
その強い眼差しを受けた私は、言葉を詰まらせる。
「君も一緒に、来てくれないか?」
「……」
もう訳が分からない。けれど私はーー…頷いていた。
※
秋君の一歩後ろを歩いて校舎裏へと向かう。
すると急に秋君は立ち止まった。私も合わせて足を止める。
普段なら誰も居ない校舎裏から、声が聞こえてくる。
「ーー圭ちゃん、久しぶりだね」
優しい女性の声だった。
壁に向かってしゃがみ込んだ女性が、小さな花束を壁際にそっと置いている様子が見えた。女性の後ろには男性が立っている。
「私と竜ちゃんも、もうすぐ28歳になるんだよ。それでね、圭ちゃんに報告したいことがあって、今日、ここに来たんだ」
女性は、その場に居ない誰かに向かって話しかけている。
それは傍から見ればおかしな光景だ。
けれど女性の横顔はとても穏やかで、その微笑みは母親の様にあたたかい。
綺麗。そう思った。
「私ね、竜ちゃんと結婚するんだよ」
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