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プロローグ
ラフマニノフの指先は、選ばれた者だけが持っている。
*
その店の扉を開くには、少しの勇気が要った。
国立市の大学通りからひとつ裏に入った路地にある、カフェ「オセロ」。地産の野菜を使ったランチが評判らしいその店の『水曜日のピアニスト』について教えてくれたのは、馴染の楽器店のオーナーだった。
大学通りのカフェで毎週水曜に弾いているらしい。
俺の調律したピアノだ、と添えたオーナーは、それ以上詳しくは語らなかったけれど、ピアニストのものだという名刺を見て、ささやかな興味は驚きに変わった。名前に見覚えがあったからだ。にわかに鼓動を速める心臓を落ち着かせようと、オーナーが淹れてくれた苦めのカフェオレを口に含む。
懐かしさと微かな胸の痛み、かつての激情が嵐のように過ぎ去った。
たとえば、根津の古い町並み。ピンクの躑躅と神社の参道。雨のにおい。水滴がついた古い校舎の窓硝子。ビニール傘越しに仰いだ空、水たまりのアスファルトといったもの。
「曲名は、ラフマニノフの『幻想的絵画』」
そして、ピアノ。
遠ざかったように思ったものたちが鮮やかに蘇る。
(ああ、そうか)
レモン・イエローの色彩を最後に、追憶は確信に至る。
(そうか、あなたは――)
「お久しぶりです」
閉じたビニール傘を傘立てに挿し、奥のピアノの前に座っていた背中に声をかける。楽譜をめくっていた手が止まった。振り返ったそのひとに、会釈ののち、もう一度言う。
「お久しぶりです――」
向かい合えば、耳奥に忘れていた旋律が流れ出す。
十年前のあの日。
――あなたのピアノはいつだって、雷鳴に似た不穏さを持っている。
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