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妻の遺体と最初に対面したのはオレではなく、義父だった。
愛娘の冷たくなった手を握る事態を想像しただけで、いまのオレは吐き気がする程に胸が痛むというのに。
あの数日のことは記憶が錯乱していて、いまでも上手く思い出せない。
不意に、スーツのポケットで携帯電話が鳴動する。ディスプレイに表示されているのは、見覚えのない番号。
メロディに合わせて歌い始めようとする娘を制しながら、通話ボタンを押した。
「ご無沙汰しております。黒木です」
反射的に呑み込んだ冷気が、喉に苦味をもたらす。
言葉に詰まったオレの沈黙を勘違いしたのか、かつての後輩が遠慮気味に補足する。
「あの、黒木 恭子です、投資銀行時代にお世話になった」
「あぁ、わかってる。久し振りだな」
「はい、本当に……」
沈黙の背景に、ピアノの音色。バッハのゴールドベルク変奏曲。彼女はいま何処にいるのだろう、と考え始めた自分に気付いて、狼狽する。
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