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人は、あまりにも予想外のことが起きると、思考を停止してしまうようだ。それは全く新しい現状を受け止めるために、脳に空っぽの空間をつくるためなのか。それとも、受け止めると己の精神が保てないと判断した上での回避行動なのか。答えは分からないが、私は何とか指示された通りに人数を訂正した。
それぞれ飲み物の注文を終えた頃、一度外に出た彼が、妻を連れて戻ってきた。
きれいな、人だった。
女性にしては背が高く、細身で、ロングスカートが抜群に似合っていた。色白の肌に、涼しげな目元、簡単そうでいて計算された緩めのヘアアレンジ、どの部分を見ても、天から与えられた魅力が多過ぎる、と思わせるような女性だった。
院長が、上機嫌に紹介する。
「奥様は、音大を卒業後、プロとしてご活躍しぃ、その後は看護学校も卒業された、実に素晴らしい女性でございます!」
今はただの主婦ですから、と、はにかみ、夫である彼の方を見て、何か言葉を交わした。
彼の妻でありながら、ただの主婦。
そう言える彼女と、自分の立場には、絶対的な差が存在することを痛感した。
この場所で、彼の側に寄り添い、目を合わせて会話をすることができるのは、妻である彼女だけ。法律で守られた、正しくて明るい夫婦の世界。私が彼に与えたと思っていたものは、輝く夫婦関係を維持するためのエネルギーに変わっただけなのかもしれない。
私の存在って、何だろう。
彼女が伸びやかに歌う姿を、まるでテレビの画面を見るような気持ちで、ぼんやりと眺めていた。
ようやく会がお開きとなり、私は周囲への挨拶もそこそこに、自宅に向かい歩き始めた。
「待って。」
かけられた声に振り向くと、そこに彼の妻がいた。
「こんなに若くて可愛いお嬢さんが、一人で歩いてお帰りに?お家はお近く?」
「え…」
突然のことに言葉が出てこなかった。
「真志、送ってあげたら?」
これは、妻の余裕なのか。立派な夫が、私のような小娘などに構うはずもないということか。それとも、まさか。
私が魅力を感じたこの男性は、妻の愛、妻が淹れるコーヒー、そして妻との営みのもとで成り立っている人なのだ。
「大丈夫です、さようなら。」
「気をつけてね!…」
背後からの声に、私は振り返ることなく歩き続けた。彼の声は一度も聞こえて来なかった。
「気をつけて、色々と。」
妻が呟いた。
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