第1章 与える私

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時刻は午後9時を回った。 縦にカットしたオクラに、柚子胡椒を混ぜたマヨネーズをたっぷりとのせる。温めたオーブンに入れ、あとは表面に焼き色がつくのを待つだけだ。冷蔵庫からラムレーズンがふんだんに混ぜ込まれたクリームチーズを取り出し、カットしたものをガラスの皿に並べる。 先程のオクラの具合を確かめるため、オーブンの中を覗こうとしたが、そんなことよりも待ち焦がれていた瞬間が近付きつつある気配を感じた私は、手を止め目を閉じた。感じる、僅かな空気の動き。呼吸ですら、止めたくなる。自分のために使わなくてはならない細胞があるのが勿体無い。自らの肉体に授かっているものはすべて、今を確かめることに使わせて欲しいと思う。その気持ちに反発するかのように、鼓動だけはますます早まっていくのを全身で感じている。 気配だったものは、やがてコンクリート製の階段を上る足音に変わり、私が住む部屋の前でその動きを止めた。 ーピンポーンー チャイムが鳴った。 ふぅ、とようやく呼吸を取り戻した私は、横目でオーブンのオクラが順調に仕上がっていることを確認し、キッチンから玄関へと向かった。一歩がつい大きくなってしまうことに気がつく。念のため覗き穴から外を確認し、内鍵を回してからドアをゆっくりと開けた。 「おかえりなさい。」 「ただいま。」 帰宅時恒例の挨拶が、笑顔で交わされた。 静かにドアを閉め、回した内鍵から手を離した次の瞬間から、ただひたすら優しい抱擁でお互いを感じ合う。身体のどの部分に「心」という場所があるのか分からないが、胸のあたりが熱く潤って満たされていくようだから、心はこの辺りに存在しているのかもしれない。 「会いたかったよ、美波」 「うん、まさくん」 軽いキスを交わした後、彼はいつも通り、通勤バッグをシューズボックスの上に置き、スーツの上着をそのバッグにそっと被せ、靴を脱いだ。 「ビール、冷えてるよ。」 「おー、待ってました!この瞬間のために、今日も一日仕事してきたと言っても過言ではない!」 「あはは。さあさあ、手を洗って来て。」 「はいはーい。」 ープシュッ、トクトクトク…ー 「かんぱーい!」 「くぅー、最高っ!」 「美味しいー!まさくんの帰りを待って待って待って喉の渇きを我慢していたから、尚更美味しいなぁ…」 「いや本当にごめん。会議が長引いて遅くなり、申し訳なかった!!」
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