第1章 与える私

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「このグラスで飲むビール、本当最高。」 「うん、私も気に入ってる。」 「去年の温泉旅行の帰りだったよな、群馬に行った時の。」 「そうそう。迷わず購入を決めたよね。」 二人きりで過ごしたその旅行は、週末を利用した、いわゆる一泊二日という日程だった。旅行中のあらゆるシーンを想像、いや妄想しながら、あえて勿体振っているかのようなペースで荷造りをしている際中、私はふと思った。「一泊二日」という表現は、何て雑なんだろうか、と。1日目に目的地へ向かい、宿泊した後2日目に帰宅、などとでも言いたげなこの言葉は、特別に貴重なこの旅行の濃度や意味を、全く表しきれていない。小中高の修学旅行で教わった、「帰宅するまでが旅行です」という言葉を思い出す。出発から帰宅までを、時間にして数えた。 「33時間、か。」 結局表現を変えたところで、過ごす時間の長さは変わらないことなんて分かっている。自分でも、無駄な足掻きっぷりが情けなくて笑ってしまう。それでも私は、限られた時間を一瞬も適当に扱いたく無い思いで、33時間、という表現案を、勝手ながら採用することにした。 このグラスと出会ったのは、出発してから25時間が経過した、旅行2日目の午前中だった。タイムリミットが迫る中、あと一箇所だけと立ち寄ったのがガラス製品のショップだった。 「これ!」 二人は同時に、同じグラスを指差していた。 ガラスの底で薄緑色に煌めく山がそびえ、側面にはもっちりとした雲が描かれている。ここにビールを注ぐと、まるで黄金色の夕焼け空に泡の雲が浮かんでいるかのような景色が楽しめるという製品らしい。 「きれい…。昨日見た温泉からの景色、お持ち帰りできるかもね。」 「だな。よし、お土産決定。ペアグラスにして、これから毎日ビールで乾杯だ!」 「えー、休肝日も作ろうねー。」 前日の夕方、私たちは宿泊施設の貸切露天風呂から、沈みゆく夕陽を見送っていた。彼は、私を後ろから包み込むように、抱いてくれていた。温かく、満たされて、私は私の形であることを、忘れてしまいそうなほどだった。もう過去形を使って思い出さなければならず、自分がその瞬間に永遠にはとどまれないことが、ただ歯がゆい。 またいつでも、という約束は、交わされない。だからこそ、あの瞬間を形にしておけたらと、思った。少なくとも、私は。それが、今夜もこうして活躍しているこのグラスなのだ。
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