第1章 与える私

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ーピリリリリー 彼の携帯電話だ。 ーピリリリリー 着信音は、鳴り止まない。 彼はますます強く私を抱きしめた。私の腰元にあったはずの彼の手は、次第に目的をもった動きに変わっていく。 着信音が、止まった。 繰り返されるキス。 ーピリリリリー 再び、着信音。 ーピリリリリー ーピリリリリー 止まった。 私はこの時点で、分かっている。 この音は、もう止まらないことを。 気がつかないふりなんて許さないという、念が込められた音であることを。 ーピリリリリー そしてまた、鳴り出す。 それはただの機械音でしかないのに、煙の様にこの部屋に入り込んで来る。彼も私も、完全に取り囲まれる。徐々に煙の濃度が増し、空間が侵蝕されていく。息が、苦しくなってくる。この部屋から立ち上る煙が外に漏れたとしたら、電話の相手はそれを目撃した時、何を思うのだろうか。 私は堪えきれなくなった。 彼の手をつかみ、動きを止めさせてから、静かに告げた。 「電話。出た方が、良いんじゃない? 」 彼は一瞬、迷う様な表情を見せた。 ーピリリリリー 悲しげにため息をつきながら、 「ごめん、じゃあ。」 彼は私の耳元で「名残惜しいよ」と囁く。 私は無言で頷く。 彼は立ち上がり、軽くスーツのシワを気にする動作をした後、玄関に向かって行った。 玄関ドアの閉まる音が、部屋に響き渡った。 私は目を閉じる。早速電話をかけ直しているのだろう、何か話す声が反響している。少し前にあれほど待ち焦がれていた足音が、今度は次第に遠ざかっていく。聞こえなくなっても、まだそこに残る気配を感じようと集中してしまう自分が、みっともないと思う。 テレビのリモコンを手に取る。 バラエティ番組から聞こえる大勢の笑い声が、部屋の空気を日常に戻した。テーブルに残された、オクラのオーブン焼きをつまむ。出来立ては、熱々、カリカリだったのに、こんがりと焼き色がついた部分は、今や冷めきって酷い歯ごたえだった。 グラスのビールを一気に飲み干す。 「シャワー、浴びてこようかな。 …本日二度目だけど。」 自虐的に言えば、こんな状況も少し面白おかしくなるかなと思ったが、ただ自分の置かれた現実を認識したに過ぎなかった。 今日、彼はこの部屋に戻らない。 帰って行ったのだ。 妻が待つ、自宅へ。
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