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ーピリリリリー
彼の携帯電話だ。
ーピリリリリー
着信音は、鳴り止まない。
彼はますます強く私を抱きしめた。私の腰元にあったはずの彼の手は、次第に目的をもった動きに変わっていく。
着信音が、止まった。
繰り返されるキス。
ーピリリリリー
再び、着信音。
ーピリリリリー
ーピリリリリー
止まった。
私はこの時点で、分かっている。
この音は、もう止まらないことを。
気がつかないふりなんて許さないという、念が込められた音であることを。
ーピリリリリー
そしてまた、鳴り出す。
それはただの機械音でしかないのに、煙の様にこの部屋に入り込んで来る。彼も私も、完全に取り囲まれる。徐々に煙の濃度が増し、空間が侵蝕されていく。息が、苦しくなってくる。この部屋から立ち上る煙が外に漏れたとしたら、電話の相手はそれを目撃した時、何を思うのだろうか。
私は堪えきれなくなった。
彼の手をつかみ、動きを止めさせてから、静かに告げた。
「電話。出た方が、良いんじゃない? 」
彼は一瞬、迷う様な表情を見せた。
ーピリリリリー
悲しげにため息をつきながら、
「ごめん、じゃあ。」
彼は私の耳元で「名残惜しいよ」と囁く。
私は無言で頷く。
彼は立ち上がり、軽くスーツのシワを気にする動作をした後、玄関に向かって行った。
玄関ドアの閉まる音が、部屋に響き渡った。
私は目を閉じる。早速電話をかけ直しているのだろう、何か話す声が反響している。少し前にあれほど待ち焦がれていた足音が、今度は次第に遠ざかっていく。聞こえなくなっても、まだそこに残る気配を感じようと集中してしまう自分が、みっともないと思う。
テレビのリモコンを手に取る。
バラエティ番組から聞こえる大勢の笑い声が、部屋の空気を日常に戻した。テーブルに残された、オクラのオーブン焼きをつまむ。出来立ては、熱々、カリカリだったのに、こんがりと焼き色がついた部分は、今や冷めきって酷い歯ごたえだった。
グラスのビールを一気に飲み干す。
「シャワー、浴びてこようかな。
…本日二度目だけど。」
自虐的に言えば、こんな状況も少し面白おかしくなるかなと思ったが、ただ自分の置かれた現実を認識したに過ぎなかった。
今日、彼はこの部屋に戻らない。
帰って行ったのだ。
妻が待つ、自宅へ。
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