第1章 与える私

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私たちの出会いは、およそ2年前に遡る。 私は小さな薬局で、医療事務として働いている。彼はいわゆる製薬企業に勤務する、医薬情報担当者、MRとして訪れる人物だった。薬局への訪問の場合は、管理薬剤師に新製品の紹介や、添付文書の重要な改定などを伝えに来ることが多い。私は一人で受付も兼ねているため、薬剤師の手が空くまでの間、自身の業務が落ち着いていれば、ではあるが、こういった来訪者と雑談をする機会がある。 ある日、地域で人気があるパン屋の話で盛り上がった。 「あのお店、いつも並んでますよね。この暑さの中、あの行列には、なかなか並ぶ勇気が持てなくて。」 私が話し出すと、彼は 「私は並ぶ価値があると思いますよ。特にほとんどの人が購入する、コロッケパン!野菜の仕入れから拘ってるんですから!」 と、熱く語り出した。 「お詳しいんですね、良く行かれるんですか?」 「ええ、仕事上、弁当形式で大量に注文することがあるんですよ。」 「そうなんですか。」 「今日、ちょうどそのパン屋さんに寄りますよ。コロッケパン、ひとつだけ注文追加しておきますよ!」 「えっ、本当に??」 基本的には注文や予約を受け付けていないお店と聞いていたので、まさかの提案に驚いた。そして単純に、コロッケパンが食べられそうなことが嬉しかった。 「受け取りに行くのが17時半だから、その頃、あのパン屋の向かいにあるコンビニに来て頂ければ、すぐお渡しできるかと思うのですが。」 「ちょうど今日は17時で上がれる日なんです、嬉しい、ありがとうございます。」 業務の区切りがついたようで、薬剤師がMRの方に歩み寄ってきた。 「そんなに喜んで頂けて光栄です。ではまた後ほど。」 私の方に向かい、早口で彼はそう告げて、続いて薬剤師の方に向き直り、本来の来訪目的の話をし始めた。 こうして、堂々と職場で交わされたにも関わらず、たまたま誰にも聞かれることなく、会話が終了された。 結果的に、これが初めての、二人で会う約束、となった。 数分後、彼が要件を終え、私にも軽く会釈をした後、薬局の自動ドアから出て行った。屋外に出た瞬間、真夏の日差しが容赦なく彼を射る。 左手の薬指にはめられた銀色の指輪も、ギラリ、と光ったように見えた。
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