第1章 与える私

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なぜ、私は彼を受け入れたのか。 確かに話していて楽しく感じたし、眼鏡が似合うすっきりした顔立ち、スーツの似合う細身な体型は私の好みだ。ただ、以前から彼に対する強い好意があったかというと、そうでもない。 彼とこうなった一つ目の理由は、彼が、私を選んだから。 二つ目の理由は、彼との関係に、魅力を感じたから、だ。 いわゆる、都合が良い女、として声をかけられたという自覚が無いわけではない。例えそうであっても自分が選ばれたということは、私の価値はそれなりに高いのだと実感ができた。 そして、職場で会う間柄にも関わらず、プライベートを共に過ごしているという秘密の共有感、そして妻がいるのにも関わらず、自分がそれとは別の特殊な存在という点に、優越感を抱いていた。この他では味わえない背徳感に、私は魅力を感じたのだ。 彼はほぼ毎日、仕事を終えて私の家に寄り、ほんの少しだけ酒とつまみと会話と、時に交わりを楽しむ。 私は、彼が来る日は揚げ物をしない。彼もまた、私物は玄関までしか持ち込まないし、ハンドソープの香りにも気をつかう。証拠になり得るもの全てを、細かく管理しているつもりだ。 私は彼が欲しいと思うときに、欲しいものを与える。それは美味しいお酒を共にすることだったり、彼を素敵な男性として愛することだったり、身体を思うままに使ってもらうことだったりする。 そして私は彼から、時にコロッケパンだが、その他に豪勢なディナーや、老舗旅館に宿泊する旅行や、一時的に強く愛される瞬間の恍惚と切なさを、受け取る。 バランスのとれた、ギブアンドテイクの関係。 世間の呼び名とは違うかもしれないが、私はあえて、そう名付けてみた。 つまり、私にとっては、彼が既婚者であることも、バランスの一部だった。 だから、彼が私と会う時に、ある日から隙を見て結婚指輪を外すようになったのは、少しも嬉しく思えなかった。まるで、今だけは結婚している自分を解放したいとでもいう気持ちなのか、または私への余計なお世話なのか、問い詰めることは無かったが、私が魅力を感じた関係のバランスに、少しだけ歪みが生じた瞬間が、そこにはあった。
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