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手元を見ると、今日はスケッチブックを持っていない。
絵を描くのは重労働だ。頭も体力も使うし、集中力や想像力に加え、何よりモチベーションが要る。
気まずさに加えて、後ろめたさがじわりと湧いてくる。昨日、あんなことがあったから?
そうなると、足を止めた先から進めなくなってしまった。でも、帰るには彼女の前を通らないわけにいかない。かといって、取って返したように踵を返すわけにもいかない。東堂は僕がいることにもう気づいているだろう。
風がさあ……と駆け抜けていった。小さな呟きが耳に入る。
「こんな空はどうしたって描けないな。鉛筆や木炭じゃ」
快晴の秋空。雲も、蜻蛉も、飛ぶ飛行機の影すらない。ただただ広がる赤と黄と薄青のグラデーション。
ああ、減法混色だ。すべて混ざると夜が来る。
「キミなら描けるんだろうな。目で見るよりも鮮やかに」
それは予想に反して落ち着いて、穏やかな声だった。まだ色づいていない葉たちが、東堂の声に柔らかく頷いている。
「キミはああ言ったけどさ。ぼくからすれば、キミのほうが余程もったいない。あんなに贅沢に、あんなに豊かな色を持ってるのに。デッサンには白と黒しかないだろ。ものの形も質感も、陰影も距離感もストーリーだって、紙と鉛筆があれば描けるけど。……色だけは描けないよ」
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