第0話「ベネトロッサの娘」

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第0話「ベネトロッサの娘」

ラスガルド大陸西部に位置する国、ジューネべルク公国。 古代魔法王朝時代から連綿と続く世界有数の魔導国家であり、今の時代、現存する最古の魔導派閥「星骸(せいがい)の塔」が本拠地を置く古い国だ。 魔術を生業とするこの国は近隣諸国とは異なり、魔術師たちが一部重要な領地を貴族として治めている。 ジューネべルクの首都は公都リアドにあり、国の丁度中央部に位置している。 気候は北方や南方の各国に比べると温暖湿潤で四季も存在し、国土は自然豊かで水源、資源、豊富な晶石を産出する鉱山もある事から中規模国家でありながら、非常に豊かだった。 リアドには公王一家の住まう王城を筆頭に、前述した世界最古の魔術組織「星骸の塔」本部や魔術師協会、主流6派の神々を祀る各種大神殿、古今東西多種多様な文献を数多く所蔵する西方最大級の巨大図書館「ヒルデガルド蔵書庫」や、次代を担う魔術師たちの育成を目的とした魔術の名門「ベネトロッサ魔導学院」などが軒を連ね、正に魔術都市と呼ぶにふさわしい様相を呈していた。 ベネトロッサ魔導学院。 魔術黎明期、古代王朝から独立したベネトロッサ公王が設立したとされる大陸最長の歴史ある魔導学院であり、現在もその理事はベネトロッサ家当主が務めている。 公国歴391年。 歴史を刻んだ魔導学院の荘厳な石造りの廊下を、1人の少女が走る。 年の頃は10歳前後だろうか。 白金色の長い髪にコバルトブルーの大きなリボンをつけ、夏色の高い空を思わせる青く大きな瞳にキラキラと無邪気な光を湛えた少女は、息をせき切らせて廊下を駆けていた。 両手には子供の手には凡そ似つかわしくない無骨な装丁の魔導書と丸められた羊皮紙を抱え、長い廊下を駆け抜けた先にある大きな木戸を推し開けると愛らしい声音で叫んだ。 「お父様、お母様、見て!」 飛び込むなり少女は手にした羊皮紙を、部屋の中で談笑する両親に向けて誇らしげに掲げた。 「あら、どうしたのソラ?」 たおやかな仕草で少女の母が首を傾げる。その拍子に耳元のイヤリングがシャラリと爽やかな音を立てた。 「落ち着きなさい、ソラ。お母様が驚いている」 ごく薄い笑みを浮かべ、父が切れ長のアイスブルーの瞳を穏やかに細める。言葉こそ窘める様であったが、その声には愛娘に対する慈しみに溢れていた。 「お父様!」 ソラと呼ばれた少女は嬉しそうに、椅子に腰掛ける父へと走り寄り、手にした羊皮紙を見せ付けた。 「見て!また満点!!」 羊皮紙は魔導学院で先頃行われた期末考査の答案だった。少女の答案には全て補足事項の赤もなく、ただ教師による最高の評価しか書かれていなかった。 「まあ凄い。良く頑張りましたね、ソラ」 母の白く柔らかな手が伸び、優秀な我が子を労う様に優しく撫でる。頭を撫でられるとソラはくすぐったそうに、はにかんだ笑みを零した。 「それにね、今度学報に論文も載るの!」 「それは凄い。フィーでも学報に載ったのは11歳だった」 父親も娘の方を見ながら穏やかに告げる。しかしその言葉にソラは拗ねた様に口を尖らせた。 「お姉様は研究論文なんて在学中、1度も書かなかったもの。それに、9歳で従霊を同時召喚したわ」 「フィーはフィー。お前はお前だ、ソラ」 「でも……」 機嫌を損ねた娘をあやす様に、父はその膝に聡明な愛娘を抱き上げる。 「いいか、ソラ。確かに私たち召喚術師は従霊を呼び出し、使役できてこそ一人前だ。だが従霊の召喚には適切な時期と、それ相応の鍛錬が必要なのだ」 「分かってるわ……」 しょぼくれた娘の頭を優しく撫でながら、父は困った様に微笑んだ。 「姉さんは確かに天才だろう。だが、それが必ずしも最優であるという事にはならない。優れた導師が、優れた魔術師であると言う論法が成り立たないのと同じだ」 「……どうして?」 「あの子は人に教える術を持たない。それは学ばずとも何でも1人で出来るからだ。魔術師として塔に貢献するには、今後姉さんを超える人間は出ないだろう。しかし、この魔導学院に貢献できるのはお前の様に日々学び、鍛錬し、長い道程を歩んだものだけだ」 「……良く分からない」 言っている事は理解できるが、納得出来ないと眉を寄せる娘に、父は続けた。 「お前は次代を導く事の出来る子だ。それはこの魔導学院を管理する我がベネトロッサ家において、重要な素養の1つなのだよ」 「私は先生に向いているって事?」 「そうだ」 理解を示した娘に父は緩やかに頷いた。 「あらあなた、ソラを導師にするおつもり?」 「そのつもりだが……この子の視野は広い。研究室に閉じ込めてばかりでは可哀想だろう」 妻から尋ねられ、彼は答える。 すると妻は意外そうに首を傾げた。 「この子には他者を導く才能だけでなく、物事を多面的に理解する柔軟性や、エルやフィーにはない協調性もありますわ。一導師にするだなんて、勿体無いのではなくて?」 「確かに。君の言う通りだ」 彼女の言葉に、彼も苦笑混じりに頷く。 「いずれにせよ、ソラ。お前は兄さんや姉さんを気にする事なく、好きな様に才能を伸ばせばいい」 長男のエルフェンティスは昨年14歳で従霊の召喚を果たし、現在は塔の戦略部門配属となり内戦の調停や禁術師たちの取り締まりに励んでいる。 長女のフィーネルチアは9歳という史上最年少で、歴代2人目となる2騎同時召喚を行い、鳴り物入りで技術開発部門に配属された。 次女のソルシアナーーソラも、何れは召喚の儀を成功させ、若くして学報に研究論文を載せた驚異の頭脳で学院や国家の発展に貢献していく事だろう。 「心配なのはネイドルフね。あの子、勉強が大嫌いなのだもの。やんちゃな所もあるし」 末の弟の名前を出され、父の膝の上で大人しくしていたソラがクスクスと肩を揺らした。 「ネイトは本が嫌いだもの」 「ソラにべったりで何でも真似したがるくせに、そこだけは真似しないのよね」 困った様に溜息をつく母に、ソラは父の膝で甘えながらも、お姉さんらしく大人びた口調で告げる。 「きっと大丈夫。私が勉強教えてあげるもの」 「そうね、ソラがそう言うなら安心ね」 心底頼りにしたように言われ、ソラは任せて。とばかりに自慢げに胸を張った。 「ところでソラ、来年召喚の儀を受けてみないか。お前ならきっと良い従霊を呼べるだろう」 父からそう尋ねられると、ソラはうーん、と愛らしいその表情を曇らせた。 「でも、もし呼べちゃったらお仕事で蔵書庫に行く暇がなくなりそうだし……」 「ほう、博学な私の娘には、まだ蔵書庫に読めない本があったのか?」 「む、読めない本はないわ。読めていないだけ。時間がいくらあっても足りないんだもの」 本が多過ぎるわ。と愚痴を零す娘に、父は可笑しそうに目を細めた。 「大丈夫だソラ。一人前になっても本を読む時間くらいある」 「あら、大人はいつも忙しいんでしょ?お父様もお母様も、いつもそうだもの。一年に読む本の量は私の方が多いはずよ?」 「あら、これは一本取れましたわね、あなた?」 「どうやらその様だ」 くすりと面白そうに告げる妻の言葉に、彼は苦笑して肩を竦めた。 「大丈夫よ、お父様。時期がきたらちゃんと儀式を受けるわ。だからそれまでは蔵書庫に通わせて?ね?」 「仕方がないな」 お願い、と手を合わせる愛娘の愛らしい姿に彼は普段同業の魔術師をして冷淡と言わしめる雰囲気など皆無で頷いた。 「あ、それからね、もう一つお願いがあって……今回の期末考査、補足なしの満点だったでしょう?ご褒美に閉架書庫への出入りを許可して欲しいの。持ち出したりはしないから」 閉架書庫は担当の魔術師しか出入り出来ないから、一々申請して本を出してきて貰うのが申し訳ないし並んでいる本の中から読みたいものが見つかるかもしれないから、とソラは続けた。 「やれやれ、お前は本当に学習意欲の塊のようだ」 「ネイトにも見習わせたいわ」 「えへへ……」 両親に褒められ、ソラは満足げに照れ笑いを浮かべた。 穏やかな昼下がり。 歴史ある魔導学院の理事長室で、一家の団欒は続く。 才能ある一族に生まれ、自身も類まれなる才能と学習意欲、不断の努力を行える強い意思を持ったその少女の行く末は、誰の目にも明るく、限りなく拓けている様に思えた。 ソルシアナ・ファウリア・ド・ベネトロッサ。 後に「落ちこぼれ」と呼ばれる事になるベネトロッサの次女は、この時まだ己の未来を知る由もなく、ただ幸せに微笑むのだった。
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