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『人の願いに応えてこその神……だが、我は人は嫌いだ。奴(きゃつ)等は醜く森を汚(けが)し、水を汚し、大地を汚す。だがーーお前は愛しい』
「………」
『お前は稲穂。我が稲穂。我に願い、我を敬い、我を愛した。故に我もお前を愛そう。ただの夫として我を愛した汝(なれ)の想いに応えよう』
「……アンタ」
『我にはそれ以外、返せるものがない。遺せるものが何も無い。だがお前は我にくれたではないか。人としての生を捨て、眷属に身を置き、我にくれたではないか。お前と……吾子を』
だから返す。
贄も見返りもいらぬ。
ただ祈るだけでいいのだと、彼は言った。
己を愛した妻の想いに今こそ応えたいからと。
何処までも、何処までも真っ直ぐなのはアンタだと、そう叫びそうになるのを堪えた。
自分が請えばあっさりと海の底に沈んでやると言ったこの人は確かに蛇神で、他の人間などどうでもいいと言う。
贄を好む国津神。
冷酷で血も涙もないが……それでも彼は確かに神であり、そしてただ己の妻を愛おしむ夫であった。
「背の君」
『ほう、そう呼ばれるはいつ以来か』
感情の薄い淡白な声。だがそこに喜びが混じっているのを、穂浪は確かに感じていた。
愛しい愛しい我が夫。
そして自分が崇め奉って来た気まぐれな神。
扱いが難しく、何を考えているか分からない事も多々あったが……それでもこの社で人の姿を取り続け、妻子の傍に在ろうとした国津神。
「背の君、我が君」
呼ばい、歯を噛み締めて頭を下げた。
元祭祀の妻として、彼に接してきた人生の中で最大となるであろう畏敬の念と思慕を込めて請い願う。
「紫山と大和、その安寧鎮護の為……現し世の柵(しからみ)、その悉く(ことごとく)を忘れ給ひ、御(おん)怒り忘れ給ひて……底(て)の地にて、平らけく安らけく鎮まり給へ」
平伏した。
嘗て、幾度となくそうして来た様に。
金色の蛇神は祭祀の言葉に目を細める。
『味気ない請願だ。それより一つ……我を愛していたか?』
「……っ、幾久しく、千代に八千代に……お慕い、申し上げておりまする」
これからも変わらず、ずっと、ずっと愛していると伝えた。すると
『そうか……それが聞きたかった』
いつもは表情を殆ど変えぬのに、こんな時だけ妙に嬉しげに、実に満足そうに笑いやがる。
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